ヤマダーエフ殺害事件から見えてくるもの 岡田一男(映像作家)

alarabiya.net より。スリム・ヤマダーエフ(左)とラムザン・カディロフ(右)

レースカー・ラプソディーまたはドバイ・ワールドカップ競馬の陰で

日本のマスコミでも朝日新聞が、4月17日に大きくページを割いて報道したが、ロシアのマスコミでは、3月末以来、チェチェン共和国第2の都市、グーデルメスを根拠地としてきた、軍閥、ヤマダーエフ六人兄弟の四男スリム(1973年生まれ=スレイマン)・ヤマダーエフ予備役中佐(一説には現役大佐)、ロシア連邦英雄、ロシア陸軍参謀本部諜報局(GRU)直轄特殊部隊「ヴォストーク(東)」前司令官の首長国連邦ドバイでの「横死」が、紙面・ウェブスペースを賑わせてきた。3月28日土曜日は、ドバイで最も大規模な国際イベントの開催日であった。世界最高賞金競馬、ドバイ・ワールドカップレースが、ナド・アル・シバ競馬場でにぎにぎしく行われたのだ。日本からも3頭が招かれ出走した。競馬ファンならずとも武豊騎手とか、「ウォッカ」と言った馬名は聞いたことはあるだろう。チェチェン共和国大統領ラムザン・カディロフが、2008年6月に数十万ドルを投じて米国から購入した持ち馬、「レースカー・ラプソディー」2005年生まれ、鹿毛の牡馬も出走を目指していて、カディロフは配下多数をドバイに派遣していた。その関係者が、ドバイ警察からロシア市民、スレイマン・マードフ氏(スリム・ヤマダーエフの偽名)「殺害」の容疑をかけられたのだ。

ここで未だ「」つきで死を書かねばならないのは、ドバイ警察が、スリムは2009年3月28日に滞在先の高級集合住宅の地下駐車場で銃撃され即死した殺害事件とし、殺害実行犯としてイラン国籍とタジキスタン国籍の容疑者二人を逮捕し、犯行首謀者をチェチェン選出プーチン与党「統一ロシア」所属連邦下院議員、アダム・デリムハーノフであると断定、彼をはじめ関与犯を国際刑事警察機構(インターポール)に訴追すると4月5日に記者会見したにもかかわらず、スリムの実弟、イサ(1975年生まれ)ら親族が、強硬にスリムの生存と負傷加療中を主張しているためである。これは、刺客を送った敵に対し、生存を匂わせ、威嚇・牽制を図っているものと推測されている。いかなる理由かは不明だが、ドバイ警察は、未だスリムの死体の写真や、行われたとする葬儀の詳細を公開していない。またロシアマスコミとチェチェン共和国カディロフ政権の大騒ぎをよそにロシア連邦政府、国防省などは、不思議な沈黙を守っている。ちなみに国際刑事警察機構の公式サイトは、4月27日づけで、デリムハーノフ下院議員を含む、ロシア国籍チェチェン人容疑者7名の顔写真を、ドバイ警察から殺人容疑で逮捕状が出ているとする国際手配書の形で公開している。

的中した不吉な予感

生前アンナ・ポリトコフスカヤ記者が評論員を務めたモスクワの新聞、ノーヴァヤ・ガゼータ紙の2008年11月24日号は、今読み返すと興味深い記事を載せている。「チェチェンからの特殊工作班は、自分を生かしたまま拘束するなと厳命されている − ロシア連邦英雄、スリム・ヤマダーエフは、連邦手配の身で、地下からノーヴァヤ・ガゼータ紙に答えた。」と題する、ヤマダーエフへのインタビューである。そこで彼は、2006年11月18日の夕刻、モスクワ、レーニンスキー大通りの自宅間近の路上でチェチェン内務省部隊に射殺されたチェチェン人の元「ゴレツ(山岳民)」部隊司令官、モフラディ・バイサーロフの運命に、自らの運命を重ね合わせた。

「ここモスクワには、チェチェンから私を拘束する目的で、12名の特殊工作班が派遣されています。しかし、彼らには、私を生かして拘束するなと(訳注:殺せと)厳命されています。ちょうど、モフラディ・バイサーロフを抹殺したようにやろうとしているのです。バイサーロフは、まず自分の特殊部隊を解体され、次ぎに彼自身が指名手配の身になりました。そしてレーニンスキー大通りで、彼はチェチェン内務省特殊工作員達によって射殺されました。トドメの一発を撃ちこんだのは、現在は統一ロシア所属のチェチェン選出下院議員のアダム・デリムハーノフで、わざわざ自分の名が刻印されている拳銃を使用しました。このことは、衆知の事実で、誰もが知っていますが、みんなモフラディが拘束をまぬがれようとして抵抗し、撃ち合いになったと口裏を合わせているのです。」

スリム・ヤマダーエフは、このインタビューから間もなく、モスクワから姿を消した。ドバイ警察の発表では、彼は、4ヶ月にわたってドバイの高級集合住宅に、スレイマン・マードフの名で身を潜めていた。彼には数名のロシア国籍のボディーガードがついていたが、3月下旬に彼らの多くが査証更新のためドバイを離れたという。ボディーガードの交代がスムースに行かない隙を突かれたようだ。チェチェン共和国大統領ラムザン・カディロフが、自ら認める「最も親密な戦友であり、兄弟であり(実際には従兄弟)、自分の右腕でもある」、アダム・デリムハーノフを指揮官とする暗殺部隊に襲われた。カディロフの右手は十分に長かった・・・スリム・ヤマダーエフの不吉な予想は的中したのだった。ロシア連邦政府の沈黙と較べると、グローズヌイのカディロフ政権の反応は極めて素早かった。4月5日のドバイ警察の記者会見でデリムハーノフが名指されると、カディロフは6日、「チェチェン共和国大統領声明」を発表して、デリムハーノフの潔白を声高に主張し、彼に対する嫌疑は、自らへの攻撃と見なし反撃すると大見得をきった。そして、グローズヌイ政権の息のかかった省庁、団体、報道機関を総動員してデリムハーノフ擁護の声明や集会を組織した。チェチェン共和国人権オンブズマン、ヌルディ・ヌハジーエフ全権代表をして、ヤマダーエフ兄弟とヴォストーク部隊にまつわる人権侵害、拷問、被疑者虐待、略奪、身代金取り立てなどなど、あらゆる罪状を並べ立てさせたうえ、父親のアフマド=ハジ・カディロフ(1957-2004)「チェチェン共和国初代大統領」の2004年5月9日の暗殺は、スリム・ヤマダーエフ一味によって仕組まれた可能性が濃厚となったと突然言い立てた。この爆殺事件は独立派軍事部門の実質的な責任者(軍事アミル)だったシャミル・バサーエフが自ら、責任は自分にあるとし、具体的な手口なども饒舌に語った事件である。カディロフも、これまでヤマダーエフ兄弟の関与など一言も語ったことは無かった。

 チェチェン共和国では、1994年のチェチェン戦争開始以来、ロシア占領軍により、また裏ではロシア特務機関とも気脈を通じていた一部の独立派内の「過激派」を装った犯罪集団によって、夥しい数の普通の住民が命を失ったり、負傷したり、また身代金目当ての不当連行の犠牲ともなった。しかし、ロシア側に身を売っても、あたかもコンビニの食品が、賞味期限が切れるとあっさりと廃棄処分になるような抹殺の例があまりにも多いことに気がつくだろう。スリム・ヤマダーエフの殺害事件も、その一環なのである。また、ロシアの肥大化したシロビキ(軍治安)体制というものが、必ずしも一枚岩の強固なものではないという事実も、そこから浮かび上がってくる。ロシアの最高指導者はスターリン時代以来、さまざまな特務機関を並列させ、競わせることによって支配を固めてきた。その伝統は、共産党が往年の力を失い、特務機関の支配者が最高権力を獲得したプーチン時代になって、より鮮明になった。対立やいがみ合いの度合いもまさに、マフィア映画の血を血で洗うような構図となってきたのである。ロシアのプーチン体制自体がそういう体質を濃厚に持っているが、最も凝縮した形で現れているのが、チェチェンでの権力闘争なのである。

傀儡初代大統領、アフマド=ハジ・カディロフとその死

2004年5月8日には、プーチンロシア連邦大統領(当時)の肝いりで、前年2003年10月5日に行われた限りなく灰色で、不透明な選挙を通じてチェチェン共和国の「初代」大統領に就任していたアフマド=ハジ・カディロフが、グローズヌイのディナモ国立競技場での「対独戦勝記念日」式典の貴賓席を爆破され、チェチェン議会議長とともに殺害されている。彼の死が、バサーエフ派の手によるものと信じている者は、今やチェチェン国外にいて、「カフカス・センター」など、ワハビスト系プロパガンダ・サイトの記事を鵜呑みにする人々だけのものになっている。確かに表面上は都合良い「事実」としてロシアの公式見解ともされているが、チェチェン共和国内の民衆は、ロシア占領軍内部の軋轢の中で、アフマド=ハジ・カディロフは殺されたと信じている。ウラディーミル・プーチンは、ロシア連邦大統領としては、かなり一貫して、ロシア・チェチェン戦争のチェチェン化の推進者であった。しかし、それではチェチェン戦争からの利益があまり得られなくなる者が、ロシアの軍・治安(シロビキ)体制の中には、数多くいた。スリム・ヤマダーエフの弟、イサは、ラムザン・カディロフが、突然に父親に対するヤマダーエフ一族の殺害関与を言い出したことについて、「これは異な事、ラムザン・カディロフは、周囲の者には、つねづね父親の死は、実はロシア側にやられたのだと、語ってきているではないか?」と、反撃の内情暴露を行っている。
ここで、カディロフ親子に何故、プーチンが目をつけたのかを考えておこう。カディロフというその姓は、カディル(アラビア語では「有能な」という良くある男子の名)という11世紀のイスラーム聖職者の名からきている。さきごろ高文研から出版されたチェチェンの道徳律、ウェズデンゲルに関する作家イサ・アフマードフの著書「チェチェン民族学序説―その倫理、規範、文化、宗教=ウェズデンゲル」には、チェチェンの伝統的なイスラーム信仰についても触れられ、スーフィズム諸教団について言及している。そこで興味深いのは、主要教団として、カディーリー教団とナクシュバンディ教団を挙げていることである。これまでチェチェンの主要教団は、しばしば「ハジムリートとナクシュバンディート」とされてきた。ハジムリートという通称は、カディーリーの教えをトルコからチェチェンにもたらした19世紀のクンタハジの名から来ている。歴史的にもカディーリー教団という呼び名は、中央アジアにも存在するので奇異ということは無いのだが、カディロフ政権下のチェチェンでは、チェチェン独特の、しかも多数派を占めるハジムリートの同意語として、敢えてカディーリーが使われていることが伺われる。クレムリン当局は、チェチェン伝統イスラームの中心であるスーフィー信仰の多数派である、「カディーリー教団」の中枢を担う一族、カディロフを自分たちの傀儡とすることにより、チェチェンの信仰上の権威をも獲得しようともくろんだのだ。現在のロシアの政治体制は、ロシア正教会をはじめ、各地のイスラーム教会から幾つかの民族共和国の(チベット)仏教寺院やシベリア先住民の間で権威を持つシャマンに至るまで、ほとんど全ての宗教を実質的なFSB支配体制の中に組み込もうとしている。グローズヌイ政権の中でも、宗教政策はきわめて重視されており、それがドゥダーエフ政権時代の大統領庁舎跡地における、ヨーロッパ最大のイスラーム大聖堂「チェチェンの心」モスクの建立などに現れている。プーチンは、そういうアフマド=ハジ・カディロフに目をつけ、その暗殺後は、その息子の登用にこだわった。モスクワに暗殺の第一報が入るとプーチンは、ラムザン・カディロフを呼びつけた。服装にはかなりラフな国柄であるロシアだが、国家元首である大統領の前に、寝間着も同様のトレーナー姿は通常ではあり得ない。モスクワの病院に入院中のラムザンは、病室から急遽保護者プーチンの元へ駆けつけ、父親の死を知らされ、いろいろな意味で因果を含められた。だからこそ、ラムザン・カディロフは言う。「現在のチェチェン、今の自分があるのは、全て、ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ(プーチン)のお陰だ。」と。 

死の連鎖 続いては、治安責任者ルドゥニク・ドゥダーエフ

2005年12月11日には、チェチェンにおける治安実務の最高責任者である、チェチェン共和国安全保障会議書記のルドゥニク・ドゥダーエフ(1949年生まれ)が、厳重に警備されたチェチェン共和国政府庁舎中庭に止められた、本人が宿舎代わりにしていたキャンピングカーの中で焼死した。この人物は30年以上にわたりソ連国家保安委員会(KGB)・ロシア連邦保安庁FSB)のイスラーム問題、中東イスラーム諸国工作の専門家高級将校であり、KGB時代には、イスラーム聖職者だったアマド=ハジ・カディロフの直接担当将校だった。彼こそ最も決定的な時期に、国家ムフティーに成り上がっていたカディロフをマスハドフ大統領から離反させ、独立派チェチェン政府を窮地に追い込んだ人物であり、当然激しく対立してきたイスラーム武装勢力から命を狙われていた。彼の死を「カフカス・センター」は、12月11日づけの記事で、「特殊工作班、FSB将軍ルドゥニク・ドゥダーエフ抹殺に成功」と戦果を高らかに謳い上げたが、後に、独立派国家防衛評議会(GKO=MS)の会議で、マスハドフの後継者で、最高司令官となったアブドゥルハリム・サドゥラーエフ大統領が、わざわざ訂正報告行っている。「これまで、わが軍の破壊工作部隊が、手を下したと見てきたが、我が軍のいかなる部隊からも、作戦報告も戦果報告も上がって来ていない。従って、ルドゥニク・ドゥダーエフの死に独立派は関与せず、ロシア側の内部抗争によって、殺害されたのだと断定せざるをえない。」とした。ルドゥニク・ドゥダーエフは、アフマド=ハジ・カディロフを側近として補佐していたが、息子のラムザン・カディロフに対しては、きわめて懐疑的であったとされている。

大統領警護部隊長、モフラディ・バイサーロフの死

それからほぼ一年後、2006年11月18日にスリム・ヤマダーエフが予感したバイサーロフの射殺がある訳だが、モフラディ・バイサーロフという人物についても見ておこう。首都グローズヌイ近郊のポベディンスコエ村で1966年に生まれた、この人物は1998年まで、およそ10年間カザフスタンで暮らしていた。この人物も、他の多くのチェチェン人と同様、チェチェンの独立の支持者であった。一説には、当初は、同じく近郊のアルハン・カラ村を根拠地としていた無頼漢アルビ・バラーエフを司令官とするIPON(特別任務イスラーム連隊)に加わっていたとも言われる。しかし1999年にワハビストとの衝突と近親者の殺害を機に配下の武装集団を率いて独立派政権の国家ムフティーだった、アフマド=ハジ・カディロフに近づき、彼の警護部隊長として実質的なボディーガードとなる。そしてまもなくカディロフと行動を共にしてロシア側に寝返り、臨時行政府長官となったカディロフの警護部隊「ゴレツ(山岳民)の隊長となる。この部隊は連邦保安庁FSB)の北コーカサス局の直轄部隊となった。彼の軍籍はFSBにあり、佐官級将校であった(出典により大佐・中佐・少佐と諸説あり)。彼の部隊はチェチェンの油井の防衛も任務とし、それに付随して石油利権を握ったため、「石油連隊」とも呼ばれていた。彼は、2004年5月のカディロフ爆殺事件で重傷を負った。アフマド=ハジ・カディロフの死後、彼の部隊はFSB北コーカサス局作戦戦闘部隊「ゴレツ」に再編される。その後、彼は、プーチンの庇護の元で、形式的な大統領、アル・アルハーノフをしのいで勢力を拡大するラムザン・カディロフと対立を深めてゆく。2006年5月に送油管の利権を巡ってカディロフとの対立は頂点に達した。バイサーロフは、アルハーノフ「大統領」という、カディロフとの対立をもともと望まない人物に頼ろうとして失敗する。彼は孤立してモスクワに逃げ、彼の出身村、ポベディンスコエ村の「ゴレツ」部隊の兵営はカディロフ部隊によって包囲の憂き目にあう。チェチェンでカディロフは、彼とその部隊の一般住民や無実の人々への人権侵害、虐殺行為暴露を開始した。モスクワでバイサーロフは、FSBの縁故者たちの支援を期待する一方、ロシアのマスコミにカディロフとその周辺の住民虐待、非人道的行為や犯罪行為の裏情報を流して、反撃を試みた。秋になってアンナ・ポリトコフスカヤ記者が殺害されると、その背景などについてもマスコミに対して積極的に語り始めた。カディロフ側は、一連のバイサーロフの犯罪行為を告発、11月14日には、「ゴレツ」残存部隊の正式解体をFSBに発令させ、チェチェン共和国内務省は、バイサーロフの連邦手配を発表した。彼が前述のように射殺されたのは、11月18日であった。

生き残った二人のチェチェン人特殊部隊司令官の運命 ヤマダーエフとカキーエフ

 バイサーロフが抹殺され、ラムザン・カディロフチェチェンで独裁体制を固めると、親ロシア派チェチェン人勢力の中では もはや軍事力で彼に対抗できる者は、いくつかの例外を除いてはなくなった。残っているのは、ロシア連邦陸軍参謀本部諜報局(GRU)がチェチェンに展開する二つのチェチェン人特殊部隊「ザーパド(西」と「ヴォストーク(東)」を率いる二人の司令官だけとなった。ザーパドの司令官は、サイド=マゴメッド・カキーエフ(1970年生まれ)といい、他の連中と較べて異なるのは、独立派に身を置いたことが全くないという経歴である。ソ連時代からコーカサス駐屯のGRU特殊部隊に配属され、80年代末期に、アルメニアアゼルバイジャンの間で領土紛争の起こったナゴルノカラバフ地方に派遣された後、チェチェンに送り込まれて、反ドゥダーエフ派を指揮し、何度も重傷を負いながら戦列復帰を果たしてきた。負傷の数で較べるならば独立派の野戦司令官サルマン・ラドゥーエフ(1967-2002) に匹敵するサイボーグ人間のような人物である。彼もまた、ラムザン・カディロフに好意を持たない人物として知られていたが、対抗する野心は持ち合わせていなかった。2003年からザーパドの司令官を務めていたが、2007年末に、その司令官を退いて、名誉職に近い徴兵活動を行う、チェチェン青年軍事愛国心教育局副軍事委員に転じた。彼には先見の明があったのだ。しかし、スリム・ヤマダーエフ抹殺からおよそ一ヶ月、4月下旬になって、やや信憑性には疑問もあるが、チェチェン内務相、ルスラン・アルハーノフが、ラムザン・カディロフの根拠地であるホシ・ユルト村に呼びつけられ、カキーエフ抹殺の失敗を詰問され、厳しい叱責殴打を受け、抹殺の実施責任がチェチェン内務省から、またもアダム・デリムハーノフに移されたという噂が、グローズヌイで流れているという。しかし、グローズヌイからは、カディロフがKTO(対テロ作戦)停止にあたっての実務会見で内相を高く評価、激励したという情報や、内相がマスコミインタビューに応じたという記事が流されている。カキーエフ抹殺というヤマダーエフ事件の再現があるかどうか、注意が必要だろう。

ヤマダーエフ6人兄弟 彼らに平穏な死はありえない

カキーエフの経歴、進路選択と対照的なのが、相対する「ヴォストーク(東)」の司令官、今回抹殺されたスリム・ヤマダーエフである。 先にも触れたようにスリムは、ヤマダーエフ六人兄弟の四男である。彼らはカディロフと同じ、チェチェン最大のテイプ(部族集団)であるベノイ・テイプに属している。ベノイ・テイプの有名人としては、他にも、ロンドンに亡命中の独立派指導者、アフメド・ザカーエフ、保健相だったウマル・ハンビーエフなどもいる。ヤマダーエフ一族はカディロフ一族とは親戚関係とも言われている。兄たちには、長兄はルスラン(1961-2008)、次男ムサ(1968年生まれ)、三男ジャブライル(1970-2003)がいた。また弟たちには、イサ(1975年生まれ)とバドルッディ(1977年生まれ)がいる。彼ら六人兄弟は一族を挙げて第一次チェチェン戦争では独立派に参加し、故郷グーデルメス周辺において、多くが小部隊を率いる野戦司令官として戦っている。その中でも、若いながら頭角を顕していたのがスリムで、ロシア軍との戦闘で窮地に陥ったシャミリ・バサーエフの危機を再三救っている。第一次戦争の終結後、マスハドフ大統領は、まだ21歳だったスリムを准将に任じている。しかし、バサーエフが、ハッターブら、アラブ出身の義勇兵やモフラディ・ウドゥ−ゴフらワハーブ主義グループと関係を強めると、それを鋭く批判、手をこまねくマスハドフ大統領とも距離を置き始める。1999年夏には、バサーエフ・ハッターブ連合部隊のダゲスタン侵攻にあたっては、彼らのグーデルメス通過を許さず、烈しく対立する。その秋に第二次チェチェン戦争が勃発すると、チェチェン共和国軍グーデルメス守備隊長の任にありながら、侵入するロシア軍に抵抗せず、グーデルメスを明けわたした。まもなくヤマダーエフ兄弟とその部隊は、ロシア軍配下に移行し、参謀本部諜報局(GRU)特殊部隊に衣替えしてしまった。そのため独立派からは「民族の裏切り者」として、激しい非難を浴びた。

三男ジャブライルは、2003年3月5日夜、チェチェン南東部山岳地帯のベデノにおいて、遠隔操作地雷によりヴォストーク部隊の兵営を爆破されて死亡するが、これはヤマダ―エフ兄弟の皆殺しを狙った独立派部隊の特殊作戦だったされている。死亡時、ジャブライルは、ヴォストーク部隊の少尉であったが、プーチン大統領は、3月22日に大統領令348号をもってロシア連邦英雄の称号を彼に追贈した。2004年には長兄のルスランが、2005年にはスリムにもロシア連邦英雄の称号を授けられている。次男のムサ(1968年生まれ)も2008年のヴォストーク部隊解体まで、その幹部将校であった。このようにヴォストーク部隊は、ヤマダーエフ一族の家業のようなものであったが、五男のイサ(1975年生まれ)は、ヴォストーク部隊に所属しながら商才を発揮して、「ヤマダ」という建設会社の経営者でもある。末弟のバドルッディ(1977年生まれ)は、2000年夏にモスクワで恐喝事件や襲撃傷害事件を引き起こし、2003年5月にモスクワ市裁判所の判決で懲役12年を宣告された。ところが同年9月に、ロシア最高裁は刑期を1年と大幅に短縮、その後、釈放されている。彼もまたヴォストーク部隊の幹部将校としても活動してきた。

長兄ルスランは、ロシア側に立つことによって昇進を果たし、ヴォスストーク部隊の指揮をスリムに託し、チェチェン駐屯軍副司令官(2001-2002)に任じられたあと、プーチン与党「統一ロシアチェチェン支部副代表として政界に進出した。そして2003年-2007年には、チェチェン選出のロシア連邦下院(ドゥーマ)の第4期代議員としてモスクワで活動する。また2003年には、チェチェン議会にあたるチェチェン国家評議会議長選に出馬、アフマト=ハジ・カディロフと共に爆殺されたフセイン・イサーエフに敗れている。

ヤマダーエフ兄弟と犯罪スキャンダル

グーデルメスを支配するヤマダーエフ兄弟と、ラムザン・カディロフの確執は、かなり以前から話題になっていたが、厳しい対立が表面化するのは、2008年4月である。それ以前からヤマダーエフ兄弟の行状がロシアマスコミの話題に上がるスキャンダルは幾つもあった。その一つは、2005年6月4日の隣接するダゲスタンとの国境間近のチェチェン北東部ショルコフスキー地区ボロジノフスカヤ村(注:スタニッツァ=屯田村なので女性名詞)におけるアワル系住民虐殺事件がある。これは地域住民といさかいを起こした部隊員の父親の死に復讐のため介入したヴォストーク部隊が、集落を包囲襲撃し、数軒の家屋を焼き払い、住民10数名を死傷させた不祥事で、アワル民族の住民は村を捨てて隣国ダゲスタンに逃げ、ダゲスタンで抗議集会を開き、ダゲスタン当局に窮状を訴えた。ダゲスタンとチェチェンの共和国間紛争となることを憂慮した、ロシア南部連邦管区全権代表が、特別会議を招集する騒ぎとなったが、スリム・ヤマダーエフは、自分たちは、部下の家族の葬儀に赴いただけとシラを切った。またチェチェン域外への出撃による不祥事では、2006年秋にチェチェン人実業家が経営参加していたサンクト・ペテルブルグ市の食肉コンビナート「サムソン」社と、仲介業「サロリン」社間の不動産紛争への介入事件が知られる。両者共に経営者が、チェチェン人であり、「サムソン」社の背後にはモスクワ産業銀行(MIB)の頭取、アブバカル・アルサモフがいた。この人物は、モスクワ在住のチェチェンディアスポラのうちでも富豪として知られる人物であった。一方、「サロリン」社の経営者、アブドゥル・クルカーエフは、ヤマダーエフ兄弟の友人であった。9月14日、スリム・ヤマダーエフは部下と共にモスクワからサンクト・ペテルブルグに赴き、翌15日、サムソンに乗り込んで施設長のハムザト・アルサモフに袋だたきのリンチを加え、重傷を負わせた上、要求書に署名させた。この事件はロシアのマスコミでは、ヤマダーエフのヴォストーク部隊、サンクト・ペテルブルグで「掃討作戦」とかなり派手に報道された。加えて翌年2月8日には、チェチェン在住のアブバカル・アルサモフの兄弟、ユスプとユヌスの2名を誘拐した。後にカディロフ政権は、ヴォストーク部隊の解体後、自派に加わった元ヴォストーク部隊員に、「アルサモフ兄弟は同日、グーデルメスのヴォストーク部隊兵営に連行され、そこでスリムの末弟バドルッディらによって暴行殺害されたという証言を引きだしている。

ラムザン・カディロフとの対立 追い詰められるヤマダーエフ兄弟

ラムザン・カディロフとヤマダーエフ兄弟の抗争が、著しく顕在化したのは、前項でも述べたように2008年4月である。4月14日に、グーデルメス市内の幹線道路「カフカス」(ロストフ=バクー幹線)において、カディロフ大統領一行の車列をヴォストーク部隊の車列がさえぎった。両者の車列は、どちらが道を譲るかでもめた。このときヴォストーク部隊の指揮を執っていたのは末弟のバドルッディだったと言われている。にらみ合いが2時間続いた後、カディロフの特殊部隊が増派されてきて、ヴォストーク部隊の兵営を包囲封鎖して、指揮を執っていたバドルッディの引渡しを要求した。そして翌日、カディロフ側は自派の国営通信社を通じて公式声明を出し、公然とヤマダーエフ兄弟の一連の犯罪行為、非武装住民への暴行、不当連行、迫害行為、殺害を非難し、犯罪として告発することを宣言した。加えてバドルッディに対しては、「政府指導者への暴力的脅迫行為」というロシア刑法上の条文も告発に付け加えられた。4月19日には、ヤマダーエフ側も対抗して、カディロフ側の非武装住民への暴行、殺害など犯罪行為を暴いて反撃を試みた。カディロフ側は、モスクワに働きかけて、スリム・ヤマダーエフのヴォストーク隊司令官からの解任決定を取り付ける。さらに8月には、非武装住民への暴行殺害の罪によって正式に告発、連邦手配に持ち込んだ。しかし、現実にはスリムもバドルッディも拘束されることなく動き回っていた。彼らにもまた、ロシア軍部をはじめ、味方は沢山いたのだ。モスクワにいる長兄のルスランは、ヤマダーエフ兄弟に罪があるとすれば、それはカディロフの統制に服していないと言うことだけだと声明した。

スリム・ヤマダーエフとグルジア紛争

ヴォストーク部隊がGRU(ロシア陸軍参謀本部諜報局)の統制下にあるとはいえ、ヤマダーエフ兄弟の私兵的存在である。部隊員はあいかわらず任を解かれたはずのスリム・ヤマダーエフの指揮下にいた。そして彼らは8月8日、ロシア=グルジア紛争下の南オセチアの最前線に投入される。翌9日にグルジア側も、南オセチアの首都ツヒンヴァリ近郊のティズカニ高地でロシアGRU特殊部隊との戦闘を認め、グルジアのサーカシヴィリ大統領は、敵GRU特殊部隊60名を殲滅と戦果を誇って見せた。しかし、それまで国連平和維持軍を名乗るロシア軍と、NATO仕様で武装したグルジア軍の間で膠着状態だったツヒンヴァリを巡る戦闘は、一気にロシア側有利に向かった。夕刻には、ヴォストーク部隊が、ツヒンヴァリ市内を完全に制圧し、余勢を駆って彼らは、13日には南オセチアに隣接するグルジアの町ゴリに侵攻した。彼らは、チェチニア、ヤマダーエフ部隊と車体に殴り書きしたBTR=装甲兵員輸送車に上乗りして走り回り、自分たちの存続を賭けた戦いに、明け暮れた。戦闘に加わり指揮を執るスリム・ヤマダーエフの姿が、ロシアのマスコミに登場し、それに対してカディロフはグローズヌイで、いらだちを隠さなかった。2008年夏当時、チェチェンには、GRU統制下の「東」と「西」そして、FSB統制下にあって表面的には内務省(MVD)軍という形のカディロフ部隊である「北」と「南」というチェチェン人部隊が存在していた。大きな犠牲のでることが予想された南オセチア戦線に投入されたのは、「東」と「西」部隊であり、カディロフは敵の出血と自派戦力の温存にも成功した。ヤマダーエフ部隊が、グルジア側のプロパガンダ報道ほど大きな犠牲を出したのかは不明だが、南オセチアでの華々しい戦果とは裏腹に、状況はスリム・ヤマダーエフに不利に展開していた。8月21日にロシア連邦国防省は、スリム・ヤマダーエフ中佐の予備役編入を発表し、それに追い打ちをかけるように翌22日には、チェチェン共和国検察局から、彼に関する非武装住民虐殺など一連の嫌疑による連邦手配が発表され、カディロフは、容疑者スリム・ヤマダーエフの居場所をわれわれは把握していると勝ち誇った。

長兄ルスラン・ヤマダーエフの死

春先から自身を巡る緊張が高まる中、ヤマダーエフ側は、プーチンと密着したカディロフに対抗するため、メドヴェーエフ大統領と軍部に援護を期待した向きがある。しかしその期待ははかないものであった。確かに、ロシアでは二重権力がうまく機能した試しがない。最も御しやすい者として、プーチンが選んだ子分のメドヴェージェフであっても、大統領という名目を獲得すれば、本人の意思とは反しても一定の権力は集まってくる。おりから米国で始まった景気後退はロシアを厳しく直撃し、実質的なロシア政治に直接責任を持つプーチン首相の地位を脅かし始めていた。ヤマダーエフ兄弟は、ヴォストーク部隊の行く末を案じ、自分たちの権益保持に腐心する。スリム・マダーエフは、ヴォストーク隊司令官を解任後、故郷のグーデルメスには戻らなかった。彼はモスクワで慎重に身を潜め、表面的な活動は、長兄ルスランが引き受けた。9月24日の午後、ルスランとヴォストーク部隊生みの親であるセルゲイ・キジュン退役陸軍大将は、スリムが所有し、モスクワで使用してきた装甲ベンツに乗車し、クレムリン宮殿を訪ねた。メドヴェージェフ大統領の補佐官に面会して、ヴォストーク部隊存続を陳情したのだ。面会した相手の名は、一部では報道されたが、確証が取れないようで、多くの報道記事では、名指しを避けている。夕刻、会見を終えてクレムリンを出た彼らのベンツは、ルスランが運転して、モスクワ川左岸のスモレンスカヤ・ナベレジナヤ通りを北に向かっていた。その10番地付近で、停車して交通信号待ちをしたところで、17時15分ごろとされるが、追尾してきたアウディから出てきた殺し屋に狙撃された。爆発などにはめっぽう強い装甲ベンツではあるが、そのドアガラス窓は開いていたとされる。殺し屋はその隙間から一気に、ピストル型の超小型軽機関銃PP-91 KEDRの弾倉にこめられている20発全てを撃ちこみ、ルスランを即死させ、助手席のキジュン将軍に重傷を負わせた。そして自らは、乗ってきたアウディで逃走した。スモレンスカヤ・ナベレジナヤ10番地は、英国大使館領事部が入っている建物であり、一ブロック先で、モスクワ随一の繁華街、ノーヴァヤ・アルバーツカヤ通りとの立体交差をくぐる。その先は、プーチン首相が執務している巨大な「ホワイトハウス」、ロシア連邦政府庁舎である。モスクワでも、ずば抜けた一等地であり、治安の良い場所でもある。夕闇の迫る中、初動捜査は混乱した。射殺されたのがヤマダーエフ兄弟のどちらかは明らかだったが、一部にはスリム・ヤマダーエフが殺されたとも報じられた。しかし、まもなく殺されたのは、元統一ロシア党下院議員の長兄ルスランだと確定された。殺しの手口は、職業的に完璧であったが、明確に標的の行動を把握しての犯行は、相手の動きを完全に把握していなければ不可能なものだ。彼らのような要人警護はFSBの担当職務であり、彼らの動静の全てを把握しているのも、その警備部局である。そこからの情報提供、あるいは情報入手が無ければ、このような襲撃はありえない。

スリム・ヤマダーエフ 国外脱出

そこで暗殺首謀者の第一候補に挙げられるのは、ラムザン・カディロフと言うことになる。しかし、当然のことながらラムザン・カディロフは自分の関与を否定した。「ヤマダーエフ兄弟には敵が多い。チェチェンでは、よくある血讐だ。」とした。スリム自身も慎重であった。チェチェンで葬儀があれば、親族・友人一同は、何が何でも駆けつけようとするものだが、故郷、グーデルメスで行われた長兄の葬儀に、彼はあえて出席しなかった。そして、マスコミのインタビューには、「自分は兄ルスラン暗殺の首謀者がラムザンではないことを祈っている。」と言葉を選んだ。ロシア軍内には、彼の味方も、まだ残っていた。チェチェン共和国の連邦手配をよそに、スリムはロシア連邦軍内での昇進を果たす。11月11日には、彼が南ロシア随一のリゾート都市あるいは、作家チェーホフが、好んで暮らしたアゾフ海に面した町として知られる、タガンログ駐屯GRU特殊部隊副司令官に任命されたという報道が流れた。この辞令が真実であれば、それは彼の大佐への昇進をも意味していた。それに対して、タガンログに駐屯するGRU特殊部隊など存在しない。北コーカサスのカバルディノ・バルカリア共和国の首都、ナリチクの部隊であるという報道もあった。しかし、カディロフ側のヤマダーエフ包囲網は狭められており、スリム・ヤマダーエフは11月20日に反撃を目指して、ノーヴァヤ・ガゼータ紙のインタビューに応じた。彼は新聞社編集部の質問に対して回答を録音テープにして送ったのである。公開されたのは音声テープが11月20日、その書き起こし記事が11月24日であった。同じ24日にはまた、現職軍人に対する犯罪嫌疑であるとして、チェチェン共和国検察局が、告発書類一式を、ロシア連邦国防省に送達した。このことは、スリムを直接、カディロフ配下のチェチェン共和国内務省部隊が拘束したり、そのどさくさまぎれに抹殺することを困難にするものであった。この事態にスリム・ヤマダーエフは、モスクワから任地とされるタガンログにもナリチクにも、向かうことなく国外に脱出した。彼に用意された旅券は、変名であった。旅券名義はスレイマン・マードフ、その名で彼は、首長国連邦ドバイへ飛んだのである。そしてドバイの高級住宅街にボディーガードと共に息を潜めて暮らし始めた。彼の動静はばったりとロシアのマスコミには登場しなくなった。しかし、まもなくカディロフらは、彼の居所を突き止める。スリム・ヤマダーエフのドバイ滞在は、4ヶ月で幕を閉じた。

おわりに

さて、「そして誰もいなくなった」といったおもむきを書き連ねてきたが、多分にラムザン・カディロフ自身も、いつ賞味期限が切れるかは別として、これまで取り上げた人々と類似した運命を辿ることになるだろう。既に1年以上前になるかと思うが、来日中のハッサン・バイエフ医師とこの問題について話し合ったことがある。彼は、この私との対話の前に何度か、オペレーション・スマイルの国際医療団受け入れの承認を巡って、ラムザン・カディロフとも面会する機会を持っていた。ラムザンの今後の運命をどのように考えるか?と言う私の問いに、慎重な彼は、自分の父親の遺言について話してくれた。彼は、アメリカ亡命中で、現在の様に米国とチェチェンを頻繁に往来する状況でなかったときに父親と死に別れた。だから、遺言も双子の兄弟、フセインや、姉たちから聞いたのであろう。彼の父は臨終にあたって、自分が生涯にわたって心がけてきたことを息子たちも心がけ、孫たちにも心がけることを教えるよう言い置いて世を去った。彼は、生涯、人の恨みを買ったり、人を傷つけて血讐の対象とならないよう心がけた。そうやって七代後の子孫にまで、自分の犯した不始末の咎が及ばぬよう生涯心がけたと。それを、息子たちにも、孫たちにも心がけてほしいと遺言したのだと言う。まっとうなチェチェン人は、そういう道徳律のもとで生きており、それはチェチェンのみならず、コーカサスの人びとは、キリスト教イスラームの区別無く、類似の考え、人生観を共有して生きている。しかし、そういう人生への教訓と裏腹の世界が、現実のチェチェンでは「カディロフの世界」として展開されている。

最近、私は、ドキュメンタリー映画「踊れ、グローズヌイ!」のDVD化を進めているが、それに関連して幾つかのチェチェン歌謡の訳を行ってみた。今は、カディロフの御用音楽家となっているが、独立派政権時代に熱烈に愛国的な歌を歌っていた、アリ・ディマーエフという作曲家で歌手がいる。一説では、チェチェン共和国(イチケリア)国歌も彼の作曲になるという。彼の「チェチェンの国(ノフチーチョ)」は、とても多くの人びとに愛唱されている。

われわれの心は 火で鍛えられている 
われわれの誇りは 消えてはいない
神よ ムスリムの祖国 チェチェンを守り給え
われわれは疲れ切って挫けたオオカミではない
オオカミの星は まだ光り輝いている
チェチェンは神に愛されている
アラーの他に神はなし 神よ我らを守り給え 
アラーの他に神はなし ムスリムの祖国 チェチェンを守り給え


たとえ戦士の剣が折れようとも
われらは 戦いを続ける
神よ ムスリムの祖国 チェチェンに光を与え給え
苦しむ息子たちに 繁栄を与えたまえ
チェチェンは神に愛されている
アラーの他に神はなし 神よ我らを守り給え 
アラーの他に神はなし ムスリムの祖国 チェチェンを守り給え


時が我らに味方せず 困難の淵にあろうとも
神が愛するチェチェンは生きつづける
私たちの心には火が燃え、誇りは消えない
チェチェンは神に愛されている
アラーの他に神はなし 神よ我らを守り給え 
アラーの他に神はなし ムスリムの祖国 チェチェンを守り給え

この歌は、様々な写真や動画が貼り付けられてインターネット空間に配信されている。その多くは、チェチェンの山々や、伝統的な石塔などや、ジョハル・ドゥダーエフ、アスランマスハドフあるいはシャミリ・バサーエフの肖像写真や、独立と自由への戦いに命を捧げた有名無名のムジャヒディン(イスラーム戦士)たちの姿が貼られているのだが、作曲者自身が大げさな身振りで歌っている姿も配信されている。この歌は、愛国的な歌としてカディロフ政権下のチェチェンでも公認の歌となっている。グローズヌイのコンサートなどでも、しばしば演奏される。そんな光景もYouTube上で見ることが可能だ。さるグローズヌイの会場では、舞台で演奏が始まると、観客が総立ちになって手拍子で歌い始め、会場にいたラムザン・カディロフも一緒になって声を張り上げ、唱和している光景が繰り返し、繰り返し登場する。多分ソースはグローズヌイの御用放送局が放映したものが録画され、アップロードされているのだろう。

確かにラムザン・カディロフチェチェンを治めるようになって、幾つかの良い点というものが現れたのは事実である。腐敗が横行するとしても、市民生活に不可欠な公共インフラは、次々整備されている。新しい学校や、文化センター、病院が建設され、要員の養成も始まっている。ガス、水道、電気といったライフラインも安定しつつある。それが首都だけでなく村々にも及ぼうとしている。

イスラーム戦士と共に戦おうと山中に向かった青年たちの親族が人質に取られたり、母親や姉妹が性的陵辱を加えられたりすることはあっても、全く関係のない住民が、突然ロシア兵に連行されて行方不明になる、身代金をゆすられるといった事態は、確かに激減した。駐屯するロシア軍は大量だが、ほとんど兵舎に引きこもっている。すくなくとも平原部では、ロシア人の特務機関員は警戒されているが、チェチェン人であるカディロフ部隊の隊員たちは、それほど恐れられてはいない。

女子中学生エリザ・クンガーエワの強姦致死事件を引き起こした悪名高いユーリー・ブダーノフ大佐の所属していたシャマーノフ部隊が、第2次チェチェン戦争の当初に引き起こした数々の住民虐殺、略奪事件などは、ストラスブールの国際人権裁判所などでもロシアの非を判決しているが、カディロフ配下のチェチェン共和国検察局や、人権オンブズマンも、ロシア刑法にもとづく軍人の民間人への犯罪行為として追求を行っている。カディロフ政権は、ウリヤノフスク州知事として収監中のブダーノフを保護し、現在はアブハジア駐屯ロシア軍司令官を務めるウラジーミル・シャマーノフ将軍を犯罪者として、名指しで公然と非難している。ロシアの人権団体、ヘルシンキ・グループやメモリアルなどとの対話も始まっている。

ラムザン・カディロフ自身は、戦乱の中、まともな教育を受けられなかった世代に属しており、ロシア語が不得意で、つかえると続きが、チェチェン語になってしまうといった人物だが、有能なスタッフが整理した彼の談話は、意外や意外、非常な説得性を持っている。チェチェン伝統文化の保全を訴え、チェチェン語の保護振興を呼びかけ、小児医療インフラの早急な整備無くしてチェチェン民族の明るい未来はあり得ないとする主張に非の打ち所はない。そういった肯定的側面に眼をつむって、否定的側面のみをあげつらっては、プーチンのロシア、カディロフのチェチェンを正しく理解することにはならない。ロシア占領下のチェチェンで暮らす誠実な人々に対して、われわれは、あらゆるチャンネルを通じ、あらゆるチャンスを捉えて手を差し伸べるべきだと、私は考えている。その可能性は、公平に見て以前と比べれば増してきている。

しかし、一方に、これまで紹介してきたような、暗い闇がカディロフのチェチェンには潜んでいることを正視すべきと思う。カディロフ政権に過剰な幻想や期待を抱くことは、まちがいだ。ミス・チェチェンコンテストや、冒頭で触れた競走馬「レースカー・ラプソディ」に投じられた膨大な金銭は、ラムザン・カディロフが汗水たらして稼いだ金ではない、ロシアやチェチェンの民衆の血と汗からの成果からむしり取った、また本来は、民衆の幸福のために費やさなければならないロシアやチェチェンの大地から産み出される資源をかすめ取ったものなのである。長年、チェチェン北コーカサスを見続けてきたラジオ・リバティー放送のアンドレイ・バビツキー記者は、カディロフのヤマダーエフ殺害関与否定声明を受けて、次のようにコメントした。ラムザン・カディロフは、プーチンの「専権事項」である。だから、カディロフを非常に嫌っているドミトリー・メドヴェージェフ大統領も、うかつには手が出せない。この状況が、ラムザン・カディロフの好き放題を助長してきた。ロシア世論が、今年になって続発したウィーンや、イスタンブールなど国外でのチェチェン人抹殺事件にも、全く無関心であったことも、何でもやれるという錯覚をカディロフに与えてしまった。このことでロシアが、国際的に払わねばならない代償は大きいだろう。

チェチェンはロシアの社会矛盾を最も鋭く反映しており、ラムザン・カディロフは、まもなく来日するウラディーミル・プーチン氏の本質を、良くも悪くもはっきりと映し出している存在なのである。


参照資料一覧:
レースカー・ラプソディ売却 ドバイを目指す
http://www.bloodhorse.com/horse-racing/articles/45781/racecar-rhapsody-sold-headed-to-dubai

Ippodrom:レースカー・ラプソディの詳細馬主にカディロフと明示。血統詳細。 
http://hippodrom.ru/modules/horses/horse.php?horse_id=1800&lang=rus

Interpol media release: 2009.4.27. 国際刑事警察機構ICPO)発行のドバイ殺人容疑者国際通告書
http://www.interpol.int/Public/ICPO/PressReleases/PR2009/PR200942.asp

Novaya_Gazeta: 2008.11.24. No.87 スリム・ヤマダーエフ最後のインタビュー
http://www.novayagazeta.ru/data/2008/87/19.html

Ramzan Kadyrov: チェチェン共和国大統領公式サイト 2009.4.6. チェチェン共和国大統領声明
http://www.ramzan-kadyrov.ru/press.php?releases&press_id=2090&month=04


アフマド=ハジ・カディロフ

Kasparov.ru 2006.6.15. ワッハービスト、ムフティ抹殺を嘱託 シャミリ・バサーエフアフマト・カディロフ殺害責任を認める
http://www.kasparov.ru/material.php?id=44916EC2947F7

ヤロスラヴリ国立教育大学歴史学科  コーカサスにおけるスーフィズム運動
http://www.yspu.yar.ru/hreader/3/?in=3.4


ルドニク・ドゥダーエフ
Kavkaz_Center: 2005.12.5. 特殊作戦の結果、ルドニク・ドゥダーエフ殲滅
http://www.kavkazcenter.com/russ/content/2005/12/11/40130.shtml

Lenta.ru 2005.12.12. 三重警備の元での死 チェチェン安全保障会議書記が焼死
http://www.lenta.ru/articles/2005/12/12/dudaev/

kavkazcenter: 2006.4.3. シェイフ・アブドルハリム ”戦域は拡大する”
http://www.kavkazcenter.com/russ/content/2006/04/03/43423.shtml

Daimohk: 2006.3.28. サドゥラーエフ:われわれは誰がルドゥニク・ドゥダーエフを始末したか知っている
現在、アクセス不能

バイサーロフ
Vajno.ru 2006.11.20. FSBの庇護を解かれた直後にバイサーロフは殺された
http://www.vazhno.ru/important/article/3523/

NEWSru.com: 2006.11.21. 目撃者の見たモスクワ、レーニンスキー大通りでのモフラディ・バイサーロフ射殺
http://www.newsru.com/russia/21nov2006/baysarov.html

Moskovsky_Komsomolets: 2006.11.19. ヴァディム・レチカロフ バイサーロフ少佐最後の戦い 何故、チェチェン人ロシア将校は殺されたのか?
http://www.memo.ru/hr/hotpoints/caucas1/msg/2006/11/m66139.htm

Kommersant: 2006.11.20. 墓場までの仇
http://www.kommersant.ru/doc.aspx?DocsID=723010&print=true


カキーエフ
Utro.ru: 2004.3.24. 特務はアッラープーチンのために出撃する
http://www.utro.ru/2004/03/24/articles/politics/

Wikipediaロシア語版: カキーエフ、サイドーマゴメド・シャマエヴィッチ
http://ru.wikipedia.org/wiki/Саид-Магомед\Какиев

Kavkazcenter: 2009.4.25. カディロフ カキーエフ抹殺できないアルハーノフ(内相)殴打を命じる
http://www.kavkazcenter.com/russ/content/2009/04/25/65264.shtml

GroznyInform: 2009.4.29. ラムザン・カディロフ KTO対テロ作戦撤回で共和国内務省の治安責任は増大する
http://www.grozny-inform.ru/main.mhtml?Part=8&PubID=12177

ヤマダーエフ兄弟
当初、モスクワでスリム・ヤマダーエフ殺害と報じた例
Vzglyad 2008.9.24. http://www.vz.ru/portfolio/2008/9/24/211618.html

Komersant 2002.5.16. チェチェンの准将、ロシアの将校に
http://www.kommersant.ru/doc.aspx?DocsID=322228

NEWSru.com: 2000.8.6 元武装勢力司令官ヤマダーエフ、チェチェン分離派勢力に宣戦布告
http://www.newsru.com/arch/russia/06aug2000/iamadaev.html

Utro.ru 2005.7.28. スリム・ヤマダーエフインタビュー
http://www.utro.ru/articles/2005/07/28/462792.shtml

Agentura.ru: 2005.7. ボロズディノスカヤ村での特殊作戦で犠牲者11人
http://www.agentura.ru/timeline/2005/borozdinskaya/

Vokrug_Novostei: 2006.09.18. チェチェンのヴォストーク部隊サンクト・ペテルブルグで「掃討作戦」
http://www.vokruginfo.ru/news/news19047.html

Grani.ru: 2007.2.20. ヴォストーク炎上 ヴォストーク関係者、工場長親族殺害疑惑浮上
http://www.grani.ru/Events/Crime/m.118347.html

Gazeta: 2008.11.11. ヴォストーク元隊員 ヤマダーエフ有罪証言
http://www.gzt.ru/incident/2008/11/11/164911.html

NEWSru.com: 2008.4.14. 荒れるチェチェン: 道を譲らずカディロフツイとヤマダエフツイ撃ち合いとなる
http://www.newsru.com/russia/14apr2008/gudermes.html

Kommersant.ru: 2008.8.6. 特殊大隊ヴォストーク元司令官指名手配さる
http://www.kommersant.ru/doc-y.aspx?DocsID=1008584

ROSBALT: 2008.8.9. サーカシヴィリ:我が方は、ロシアGRU特殊部隊員60名を殲滅
http://www.rosbalt.ru/2008/08/09/511912.html

Utro.ru: 2008.8.22. スリム・ヤマダーエフ: グルジア兵は、パンツ一丁でわれわれから逃げていった
http://www.utro.ru/articles/2008/08/22/761650.shtml

Nezavisimaya: 2008.9.26. ルスラン・ヤマダーエフ殺害の真相諸説
http://www.ng.ru/regions/2008-09-26/1_hunt.html

NEWSru.com: 2008.8.22. ヴォストーク司令官スリム・ヤマダーエフ更迭、予備役編入
http://newsru.com/russia/22aug2008/yamadaev.html

Newsland: 2008.8.22. チェチェン検察局スリム・ヤマダーエフの連邦手配を中止
http://www.newsland.ru/News/Detail/id/289502

Trud: 2008.11.11. スリム・ヤマダーエフは手の届かぬ所へ
http://www.trud.ru/issue/article.php?id=200811112110403

REGNUM: 2009.3.31.ヤマダーエフ襲撃事件容疑検挙者氏名判明
http://www.regnum.ru/news/1144646.html

InterFax: 2009.4.1. ヤマダーエフの運命は霧の中
http://www.interfax.ru/society/txt.asp?id=71695

Argumentui_i_Faktui 2009.4.1. ドバイ警察ヤマダーエフ殺害犯を捜索 容疑者4名の氏名を挙げる
http://www.aif.ru/society/article/25758

Kommersant: 2008.4.6. ドバイ警察殺害犯を特定
http://www.kommersant.ru/doc.aspx?docsid=1150932

Radiostantsiya Ekho-Moskvui 2009.4.8. チェチェン大統領アフマト・カディロフ殺害事件は再捜査か?
http://echo.msk.ru/news/584083-echo.html

おわりに
Aksakal: 2008.12.11. アリ・ディマーエフ
http://aksakal.info/pages%2Bview%2B12.html

Sobar.org オーディオファイル ノフチーチョ:
http://www.sobar.org/audio/a_dimaev/A.Dimaev_chechnya.mp3

アリ・ディマーエフ自身が歌う
http://www.youtube.com/watch?v=7kWnCHq9IvA


Radio Svoboda: 2009.4.7. 寄る辺なきカディロフ アンドレイ・バビツキー記者の意見
http://www.svobodanews.ru/content/article/1603953.html


この他、ロシアの検索サイト「ヤンデックス」とロシア語版のウィキペディアをかなり参照した。非常に充実してきており、主観を排除して、多くが中立的な記述に努力していることが見て取れた。ただ、サーバーが停止し、リンク切れしてしまうものも少なからずあり、悩ましいものもあった。参考にしながら出典URLのメモを取り損ねた記事や資料もかなり沢山あることをお断りしておく。ロシアにおけるジャーナリズムは、萎縮はしているが、このくらいの拙文をまとめることが可能なくらいには健在である。

初出: チェチェン総合情報 2009.5.3.
(2009.5.5.一部改稿)