Vol.05 No.12 2005.05.11
発行部数:1710部
忘れられてはならないこと―――ロシア・チェチェン平和条約8周年の記念日に
[2003.05.13、グルジア共和国トビリシ、チェチェンプレス]
1997年の5月12日、チェチェン共和国イチケリアのアスラン・マスハドフ大統領と、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領の間で「平和と相互関係に関する条約」が交わされ、ロシアとチェチェンの間の、400年に及ぶ戦争の終結が宣言された。この歴史は、人類の紛争史の中でも、とりわけ血塗られたものだった。この条約によって、チェチェンとロシアは過去の不幸な遺産から脱して、善隣関係を築くはずだった。
残念ながら、ロシアについての楽観的な予想は、常に覆される。1998年に、ロシアは翌99年のための予算を採択したが、すでにチェチェンとの戦争の予測に基づいた支出が書き込まれていた。このことは、数人のロシアの高官たちの発言から確認できる。たとえば、ニコライ・コシュマン国家建設委員長は、99年11月12日のNTVの番組、「今日の英雄」でこれを認めた。
ダゲスタンにおける「反乱」が起こったとき、数人のチェチェンの義勇兵(数々のテロ事件に犯行を声明しているシャミーリ・バサーエフなど指す。訳注)たちが、クレムリンのチェチェン侵攻に口実を与える役割を演じた。これは「二度にわたるチェチェン戦争における英雄」である、ゲンナジー・トローシェフ大将(元北コーカサス合同軍司令官)の著書、「わが戦争−チェチェンでの将軍の手記」に記されている。ダゲスタンでの事態の展開を踏まえて、モスクワの連続アパート爆破事件が起こり、これは、彼らの陰謀の首謀者とその手先、連邦保安局(FSB)の使い走りたち自身が始末されるまで続いた。
それでも、彼らは目的を達したといえる。人々のチェチェンに対する恐怖症はロシア政府によって悪化させられ、すでに重症に陥っていたからだ。そして、共産主義時代の牢獄に生まれた、少数の一貫した人権活動家たちのほかには、新たなチェチェン戦争に反対する者はいなくなった。
6年前にロシアとチェチェンの間に結ばれた条約は、二度と現れたりしないよう、クレムリンによって、注意深く忘却の淵に投げ込まれた。しかし条約は存在し、その重要性は今も失われていない。クレムリンの高官たち、チェチェンとロシアの人民に対する犯罪の泥沼にはまっている人々が、条約を恐れている。
条約は一つの判例として、チェチェンとロシアの共存が可能であることを示している。人々の間の敵意は、克服することができる。知恵の力と、歴史の必然によって。私たちはこのことを、心に刻んでおかなければならない。たとえこの悲劇のただ中にあろうとも。
(写真は1996年8月、当時チェチェン軍総参謀長だったマスハドフと、ロシアの将校たち)
http://www.chechenpress.info/english/news/05_2003/3_14_05.shtml