閉ざされた声=チェチェン(3)アブバカール
信濃毎日新聞2005年4月22日掲載原稿を一部改稿
<「生き抜く」という抵抗>
チェチェンの首都グローズヌイ。外壁のレンガに弾痕が残るアパートの部屋には、ベッド以外に家具がなかった。この部屋に住むアブバカール・アミーロフ(52)は、白髪頭で、実年齢よりだいぶ老けて見える。
彼の運命を変える事件が起きたのは、第二次チェチェン戦争でロシア軍がチェチェン全土を占領した年、二〇〇〇年十一月十一日のことだった。
ケダモノのすること
妊娠九カ月だった彼の妻はその日、もうじき生まれてくる子どもの荷物を取りに外出した。そしてそれきり、行方不明になった。
「何日かたって、廃墟となった建物の地下室で遺体が見つかった。前から二発、後頭部に一発、銃弾の痕(あと)が残り、身に着けていたのは、上半身にまとった下着一枚だけだった」
目撃者を探し出したアブバカールは、妻が別の女性と一緒にロシア軍に連行されたことを知る。
「どうしてこんなことになったのかと息子に尋ねられて、私は答えられなかった。妊婦に手を出すなんてケダモノのすることだ。だが、ロシア軍兵士が何をしても、ここでは、誰一人罪に問われない」
占領下のチェチェンで繰り返される、ロシア軍による拷問や虐殺。家族が被害に遭っても、占領当局の報復を恐れて沈黙する住民が多いなか、アブバカールはあきらめなかった。ロシア占領当局に検死を依頼し、傀儡(かいらい)政権の検察庁や警察、行政機関、考えられるすべての場所に足を運んで、事件の捜査を訴えた。
だが、ロシア側が設置した“人権委員会”なるものに行ったとき、「口はふさいでおけ」「このことは他ではしゃべるな」などと言われた。そのあげく、アパートにいるところを覆面の男たちに襲われて袋だたきにされた。起き上がることもできず、二十日間寝込んだ彼は、チェチェンからの亡命者が多いフランスへの脱出を考える。家族と一緒に亡命し、妻の強姦殺人事件を欧州人権裁判所に訴えようとしたのだ。
吹雪の脱出
二〇〇二年一月十一日。彼は当時十二歳だった長男と十一歳の長女、八歳の二男、六歳の二女を連れてグローズヌイを出発。亡命斡旋業者を介して、脱出ルートのウクライナ・スロバキア国境近くまでたどり着いた。
雪がひざ上まで積もっていた。零下二〇度の深夜、子どもたちを連れて歩く。
「寒さと疲労で歩けなくなった娘を抱きあげると、二男も抱いてくれと言った。娘は凍傷になりかけ、二男は気を失いかけていた。このままでは死んでしまうと思い、何とか舗装道路まで出てガソリンスタンドを見つけ、救助を頼んだ」。
資金は既に尽き、亡命は断念せざるを得なかった。
それから三年。彼はいま、朝から晩まで空港の電気設備関係の仕事をしながら、四人の子を育てている。妻を殺害したロシア軍兵士の犯罪を欧州人権裁判所に訴え出ることをあきらめてはいない。
死なずに生き延びること
私は一九九五年に初めて取材に入って以来、チェチェンで、武器を手にロシアに抵抗する多くの男たちと接してきた。だが、昨年十二月から今年一月にかけての旅では、親や子どもの面倒をみながら一日一日を生き抜いている男たちと出会い、その姿に圧倒される思いがした。アブバカールはその一人だ。
「ロシアは、いったいどうやってこの戦争の責任をとるつもりなのか。何が何でも、命をかけても、これだけは問いただしたい」と彼は言う。子どもがいなければ、自ら銃を取って戦いたいというのが本心である。
だが、銃を手に戦うことだけが抵抗なのではない。死なずに毎日を生き延びること。それ自体が、侵略に対する人々の最大の抵抗なのだと私は思い始めている。