閉ざされた声=チェチェン(7)長老アブハジ(林克明)信濃毎日新聞2005年5月27日掲載の記事を改稿

急ぐな。急ぐとすべてを失う

 二〇〇五年元旦、チェチェンのゲヒチュー村を訪ねた。首都グローズヌイから南へ車で約四十分。山岳部の入り口に位置するこの寒村にまでロシア占領軍は駐屯している。

 日本人が村に来たと聞いて、一八九〇年生まれの長老アブハジ・バトゥカーエフ(114)が、私の泊まっていた家を訪ねて来てくれた。
「いまは我々には大変な時期だ。日本人がここまでたどり着くには、大変な苦労があっただろう。言わなくてもわかる」
 長老はこう言った。
 ロシア十月革命(一九一七年)後の内戦、ソビエト政権による土地の集団化、一九三〇年代の政治弾圧、第二次世界大戦下の民族強制移住、そして現在も続くロシアとの戦争―。長老アブハジは、一世紀余にわたってチェチェンの歴史を見てきた生き証人だ。

 彼がとりわけ忘れられないのは、一九四四年の民族強制移住だという。スターリンによって、チェチェンの全住民約五十万人が家畜列車などに詰め込まれて中央アジアに送られ、半数が死亡した。

 「山岳部に住む人たちは、遠い道のりを駅まで歩かされた。その途中、『地面に寝ると寒いから干し草を集めて中に入れろ』とソ連兵に言われ、七百人が大きな建物に閉じ込められて焼き殺された」とアブハジは語った。

 別れ別れになっていた家族の死を、彼は強制移住先で知った。妻、母、四人の子を含め十九人の親族が殺され、生き残ったのは彼と叔父だけだった。
   

自由と平等

 大国ロシアの支配に対するチェチェンの抵抗の歴史は十七世紀に遡る。
「ロシアは決してチェチェンを屈服させることはできない。我々は自由と平等の精神を失わない」とアブハジは言う。

 チェチェンには、君主や貴族制度、階級制度が、歴史上一度も存在したことがない。だからだろうか、私はこの十年間チェチェンの人々に接しながら、抑圧を嫌い自由を求める気持ちや平等意識が、彼らの人間性の奥深い部分に根を下ろしているのを感じてきた。

 チェチェンには、ウェズデンゲルという、何百年も前から口伝えに受け継がれてきた「人としての行動規範」がある。チェチェン社会はこれによって成り立っていると言ってもいい。仕事の実績や役職、人物に対する尊敬、年長者への敬意は別として、人と人との間に主従の関係をつくらない。それがウェズデンゲルの核心をなす原則だ。だから彼らは、隷属を強いる大国の支配を拒絶し続けてきた。

精神を支える二つのもの

 チェチェンの抵抗精神の根幹は、このウェズデンゲルと、もう一つは信仰を通じた人々の連帯感にあるのではないか、と私は思う。

 チェチェン人は大半がスーフィズム(一般に「イスラム神秘主義」と訳されるイスラムの思想・運動)信仰を持つ。

スーフィズムにおけるズィークルという儀式は、何十人、ときには百人ほどの人々が円形に並び、祈りの歌を歌う。それが輪唱になり、美しいハーモニーが響き渡る。人々の輪はぐるぐると回り、足を踏み鳴らし、手をたたき、祈りと歌を繰り返す。そうかと思えば、足を止め体を左右に揺する。激しい動きを伴いながら、どこか、座禅を組んでいるような静寂を感じさせるこの儀式を、私はチェチェンで何度となく目にした。

 一九九四年十二月、ロシアの侵攻によってチェチェン戦争が始まってから十年余。チェチェンはなお全土がロシア軍占領下に置かれ、虐殺や拷問が繰り返されている。

 「チェチェンを占領しているロシア軍は、兵士ではなく暴徒の集まりだ」
と語るアブハジ。
「だが、武装して彼らに抵抗する者たちは、状況のすべてをよく見なければならない。自分たちの力、可能性、あらゆることを考慮しなければ、望む結果は得られない。むかし、偉い宗教指導者が言っていた。『急ぐな。急ぐとすべてを失ってしまう』。この言葉を忘れてはいけない」
 彼はそう言って、杖(つえ)を突きながら部屋を出ていった。
 
写真 114歳のアブハジ(右)は冗談を言って周囲を笑わせていた。(チェチェン共和国 ゲヒチュー村2005年1月2日)