「私がチターエフです。で、私ってお尋ね者だったんですか?」

チェチェン人「戦闘員」は、どのようにしてイルクーツク州のウスチ・イリムスクから警官に護送されることもなくチェチェンのアチホイ・マルタンに行き、検察庁に出頭したのか。そしてどのようにして戻ってきたのか。

ノーヴァヤ・ガゼータ/アンナ・ポリトコフスカヤ

原文:
http://72.14.235.104/search?q=cache:a22do40Mi4IJ:www.internal-displacement.org/8025708F004CE90B/(httpDocuments)/2E6B71790B9653A2C1257212002BCAFC/%24file/en_Report_Chechen_2006.pdf+The+Story+of+Adam+Chitayev&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp
(pp.76-77)

2005年10月20日

アダムの人生に信じられないことが起こったのは、(チェチェン人にとっては)珍しくもない拘留の後だった。テレビ番組は、相変わらず「シベリアの戦闘員」がチェチェンに護送されたという報道を垂れ流していたが、チターエフはひとりでチェチェンに行ったのだった。そもそもここ何年も私たちは「シベリアの戦闘員」がチェチェンに護送されるところなど見たこともないではないか。


チターエフが拘留された後、一時的収容施設(IVS)にいる彼のもとを最初に訪れたのは、ベレゾフスキーと名乗るウスチ・イリムスクの連邦保安局(FSB)の支局長だった。ベレゾフスキーはシベリアの住人で、ロシア司法当局の印を押した書類を手にしており、そこには欧州人権裁判所に提出する書類の作成を手助けしてくれている人権団体の情報があった。

ベレゾフスキーは抑圧的ではなかった。彼はチターエフの歯を削りもしなかったし、彼の腎臓をめがけて殴りつけたりもしなかった。彼がチターエフに言ったのはこの一言だけだった。人権活動家を頼ったりしたら「お前は祖国を愛していないということだ」。

なぜチターエフが逮捕されたかということがこれで明らかになった。つまり、欧州人権裁判所への提訴を取り消せ、ということである。・・・アダムは拒絶した。だからこそ、彼はチェチェンに連れて行かれる羽目になったのだった。当局が執拗に彼をチェチェンに連れ戻すことを要求していた・・・。

だが、どうやって彼を移動させるべきだろうか?(彼をまともに移動させようとするなら)少なくとも5-6人の護送を割り当てなければならないし、市検察当局のお粗末な予算から「戦闘」および「野外」手当を出すために多額の出費が強いられてしまう・・・。

そこでベレゾフスキーは取引を申し出た。チターエフをお尋ね者のリストに入れた(欧州人権裁判所への対応をしている)チェチェンのアチホイ・マルタン地区の検察庁に出頭したという書類にサインをしてやるから、その代わり、自腹を切ってそこへ行ってこい、と。

・・・過去何年にもわたって、チターエフは調査され、検査を繰り返されてきた。彼にやましい部分はまったくなかった。当然のことながら、ウスチ・イリムスクで彼の調査をすることなど造作もないことだった。なんといっても街全体でチェチェン人は3人しかおらず、彼らのことは人々の間でもよく知られていたのだから・・・。

そうしたわけで、9月14日、アダムはひとりでアチホイ・マルタンに向かった。彼は約束した通りのことを実行したのだった。

「私がどんな気持ちでそこへ行ったのかは誰にもわからないでしょう」とアダムは述べている。

9月16日、アダムはアチホイ・マルタン検察庁に出頭したが、検察庁の方では彼が出頭することをまったく期待していなかったことがわかった。より正確に言えば、検察庁は彼が護送されてくると思っていたのであり、彼が自分ひとりで出頭してくることなど思いもよらなかったのだ。本来護送役を勤めるべき人間は職務を放棄していたが、アダムは自分で出頭し、すぐにこう言った。「なぜ私が有罪なのですか?なぜ私に対する捜査を再開したのですか?」

アダムはこう述べている。「私をチェチェンに移送させるよう要求する署名をした検察庁ヒョードル・アラヤムキンは、私と話すことを拒否しました。彼はチェチェン共和国検察庁が事件を扱っているという理由で、私を共和国の検察庁に出向かせたのです。けれども、そこへ行くとまた担当の捜査官を見つけるまで苦労をさせられました。9月29日になって初めて、私は担当者を見つけることができました。その人物はアスラン・マフムドフという名でした。そして、彼は一字一句この通りのことを言ったのです。『君の事件は手違いだから、もう帰っていいよ・・・』」

・・・チェチェン共和国検察庁にいる「自分の捜査官」をグローズヌイで探しているときから、アダムは自分が「軍服を着た正体不明の人間たち」に監視されていることに気づいていた。彼らはアダムのもとに人を送って、「欧州人権裁判所での訴えを取り消さなければ、取り返しのつかないことになるぞ。お前か家族に復讐をしてやる」と言ってきた。

アダムは検察庁で「私が誘拐される前にいっそ私を拘束して収容するべきだ」と主張した。ところが、マフムドフ捜査官は信じがたいことをしてのけた。彼はアダムに「この場所から離れろ」と言ったのだった。そして、彼はそのために必要な証明書と、アチホイ・マルタン地区のアイダミロフ署長による書類―「アダム・サラウディノヴィッチ・チターエフ(1967年6月25日生まれ)に交付・・・チターエフは・・・ロシア連邦のお尋ね者リスト:No.095010事件から外された」―を発行してくれた。

こうして、アダムはカディロフツィ*1に誘拐される前にチェチェンを去った。彼は大きなファイルをかかえてイングーシの空港にやってきた。彼の人生のすべてが、このファイルの中に収められている。空港で、彼は迷うことなくセキュリティ・チェックに向かい、こう言った。「私はお尋ね者のリストに入っているかもしれません。けれども、それは事実ではなく過去のことで、ここにそれを証明する書類があります」。彼はすべての書類―ソ連時代のコムソモール*2から兵役の記録、そして10月4日にアイダミロフ署長から発行された最新の証明書まで―をファイルに収めていた。

チェチェンからウスチ・イリムスクへの帰路、モスクワで、アダムは一連の事件について、私たちはもうこれ以上こんなふうには生きていけないというプーチン宛ての手紙を書いた。

「親愛なる大統領、私はロシアで生きていくことが日に日に困難で危険であると気づかされてしまう一人の人間です・・・お願いです。この理不尽な状況を、法の庇護が受けられない状態を、司法当局によるテロを、どうか見過ごさずに止めてください。司法当局は、問題を解決することも、アチホイ・マルタン地区の地方警察の職員に対する内部捜査を始めることもなく、逆に私や私の家族、親戚を破滅させようとしています。彼らは、執拗に私を脅迫して、自分たちに逆らえばお前を戦闘員に仕立て上げてやると脅すのです・・・親愛なる大統領、チェチェンではいまだに人々が失踪しています。超法規的な殺人と、恐ろしい残虐行為が今も続いています。信じてください。チェチェンで生きていくということが、本当にどうしようもない恐怖をともなうということを・・・これは、それでもロシアにおける法の正義を信じている人間が最後の希望を託して書いた手紙です・・・私と私の家族が治安当局によって生命の危機にさらされていると信じるに足る理由は充分にあります」

・・・アダムとアルビはあまりにも残酷な拷問を受けたため、その内容をここで紹介することは倫理的にも不可能である。四人兄弟のうち二人は、自らの幼い子どもたちの墓を作らなくてはならなかった。アダムはまだ赤ん坊だった息子のために墓を作った。生まれたばかりの彼の息子は、爆撃のショックで心臓発作を起こして亡くなった・・・。チェチェンではよくある話である。チェチェンには、あまりにも多く繰り返される試練によってのみ練磨されていく、人々の気高い尊厳がある。彼らは武器を取って戦うには、あまりにも教養がありすぎる。だからこそ、彼らは中世的な統治のもとではなく、法にもとづいて、ヨーロッパの人々のように暮らすことを渇望している。

*1:チェチェン親ロシア政権のボス、ラムザン・カディロフ首相率いる私兵集団。

*2:青少年を対象とする共産主義教育を目的として、1918年に創設された組織。ソ連時代には「全ソ連邦共産主義青年同盟」と呼ばれていた。