北コーカサス:危機にさらされる人権活動家

 原文: http://chechennews.org/dl/20071128amnesty.pdf [アムネスティ 11/28]

はじめに:

 ロシア人ジャーナリストで人権活動家のアンナ・ポリトコフスカヤは、2006年10月7日、モスクワで暗殺された。ポリトコフスカヤは、北コーカサスの情勢を調査し、弱い立場にある人々を取材し、それらについて執筆するために、チェチェン共和国やイングーシ共和国などの北コーカサス諸国をたびたび訪れており、そのために嫌がらせと脅迫を受けていた。ポリトコフスカヤはチェチェンで拘束され*1、記事を書き続けるなら命の保障はないと脅されていた。ポリトコフスカヤが殺されたのは、おそらく彼女がペンを折ることを拒んだからだろう。

 アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺は、とりわけ特殊な事件というわけではない。他の人権活動家たち―北コーカサスの人権状況への関心を提起している弁護士やジャーナリスト、弱い立場の人々を守ろうとしている人たち―も、度重なる嫌がらせと脅迫を受けている。最近の例では、11月23日の夜から24日にかけて、人権センター「メモリアル」のオレグ・オルロフ代表と、ロシア・テレビ番組「REN TV」のクルー3名―アルテム・ヴィソツキ、カレン・サシノフ、スタニスラフ・ゴリアシヒ―が、イングーシ共和国・ナズランのホテルに滞在中、誘拐され、虐待を受けた。

 アムネスティ・インターナショナルは、ロシア政府が北コーカサスで現在も続いている人権侵害に適切に対処できていないことを危惧している。加害者が罰せられない風潮が蔓延しており、強制失踪や超法規的処刑、拷問といった人権侵害が相変わらず続いている。拷問によって「自白」を強制された人々は、裁判で長期にわたって拘留され、公正な国際基準に満たない扱いを受けている。その結果、ロシアは、北コーカサスにおいて、生存権、拷問や虐待を受けない権利、自由と安全に対する権利、公正な裁判を受ける権利を尊重し、擁護することを定めた国際人権法の遵守義務を果たしていない。こうした状況下では、人権活動家や弁護士、独立系ジャーナリストは、人権侵害を監視し記録することによって、人権擁護を推進するための重要な役割を負っている。

 国連の人権擁護者に関する宣言―「普遍的に承認された権利と基本的自由の促進と保護に従事する重要な責任」が定められている―によると、「政府機関および公務に関わる機関や組織に対して、その機能を改善し、人権および基本的自由の促進や保護、実現を妨げかねない事柄全般について、注意を喚起するために意見を述べる」ことは、すべての個人の権利である*2

 国連の人権擁護者に関する宣言および、他の国際宣言や地域宣言、ガイドラインでは、政府が人権活動家やジャーナリスト、弁護士の活動を制限できるのは、他の人々の権利と自由を守るために必要である場合に限られる。国連の人権擁護者に関する宣言では、すべての個人は、権利が侵害された場合、権利の侵害について訴え、原状回復を求める権利を有すること、さらに「人権と基本的自由を守るために、専門家が法的支援や適切な助言および支援を申し出、それを提供する」権利を有すること(第9条)が繰り返し言及されている。さらに、国連の弁護士の役割に関する基本原則では、弁護士の義務や責任、権利が定められており、16条では、弁護士が脅迫・妨害・嫌がらせを受けることなくそうした義務と責任を果たすことができるよう、政府が保障しなければならないと規定されている。こうしたガイドラインや基本原則は、基本的人権や基本的自由が侵害され、加害者が罰せられないような場所では、蔑ろにされている。

 人権活動家や弁護士、ジャーナリストが活動をするためには、表現の自由や結社の自由、集会の自由が尊重されることが欠かせない。こうした権利は、欧州人権条約でも、市民的及び政治的権利に関する国際規約でも、保障されている。ロシア連邦はどちらの条約にも加入している。

 アムネスティ・インターナショナルは、現地調査および北コーカサスで活動している人権活動家やジャーナリスト、弁護士を通じて、彼らがその活動のために、標的にされ、人権侵害にさらされていることを示す不穏な傾向を見出した。この報告書は、北コーカサスで人権を守ろうとしている人々が直面する障害について、いくつか具体例を示し、人権侵害を止めるために立ち上がっている人々が直面している人権侵害について紹介する。

北コーカサスにおける人権侵害

 北コーカサスチェチェンの情勢は、近年やや改善している。道路や住宅が再建され、商業も再開し、チェチェンの首都グローズヌイへの航空便も復興した。

 チェチェン共和国内の通信も、全土で運営されるようになったインターネット・カフェや携帯電話網によって、より手軽に行えるようになった*3。一方、チェチェンに駐留する治安組織による人権侵害は相変わらず続いている。強制失踪、レイプや虐待などの拷問、超法規的処刑が、依然として続いており、加害者が罰せられることもない。さらに、被害者が恐怖から証言を拒み、人権侵害を訴える人権活動家やジャーナリストが弾圧の対象となっているため、人権侵害を公に報告することはいっそう難しくなってきている。あるジャーナリストは、自分がどのように治安当局者から直接的な脅迫を受けたかということについて、アムネスティ・インターナショナルに語っている。治安当局者は、チェチェンで安心して暮らしていきたいなら取材記録を破棄するよう、彼女に忠告したのだった。チェチェンでは、テレビも出版メディアも、総じて政府の徹底的な管理下に置かれている。

 近年、イングーシや北オセチア、カバルディノ・バルカリア、ダゲスタンといったチェチェン以外の北コーカサス諸国にも、人権侵害が波及してきている。アムネスティ・インターナショナルは、イングーシにおけるここ数年の強制失踪や超法規的処刑、拷問、虐待について、調査をしてきた。イングーシの治安は、2007年に入って深刻に悪化した。イングーシのいくつかのウェブサイト*4によると、現在イングーシでは毎月20件から25件の爆破・銃撃事件が起こっているという。正体不明の集団が民間人に対する襲撃を繰り返している。ロシア人の家族が殺害された際には、被害者の葬儀中に爆破事件が起こり、数名が負傷した。ロマ人の家族や、二人の韓国人、ダゲスタン人の家族も、こうした攻撃を受けて殺された。武装勢力は、イングーシの治安当局者に対する襲撃も行っており、治安当局者が死亡することも珍しくない。

 ここ一年のうちに、ナズランでは、少なくとも三名が、治安当局者に殺されている。当局は彼らが武器を持って抵抗したと主張しているが、目撃者の証言によると、彼らは裁判もなしに処刑されたという。こうした事件は、マルゴベクやカラブラクでも報告されている。

 治安当局者は、人々の身元チェックをするだけでなく、身分を隠したまま、イングーシの人々を拘束していると言われている。アムネスティ・インターナショナルが入手した情報によると、治安当局者はしばしば覆面をしており、そうした状況下で拘束された人々は、拷問を受けて強制失踪させられたり殺されたりしてしまう。2007年7月、アリ・ユルト村では、村人たちが集められて殴打されるという、あからさまな刑罰が行われたことが報告されている。7人が拘束され、イングーシの首都マガスのロシア連邦保安庁(FSB)に連行され、虐待を受けたという。

 アムネスティ・インターナショナルに寄せられた情報によると、2007年の1月から8月初頭にかけて、ダゲスタン共和国では、少なくとも20人が誘拐または強制失踪させられている。被害者の親族は、こうした犯罪にダゲスタン治安当局が関わっていると確信している。

 ここ数年間、アムネスティ・インターナショナルは、北コーカサスで拘束され、拷問や虐待を受けたとされる人々を何人か調査してきた。また、北オセチアウラジカフカス内務省管轄下の対組織犯罪委員会についても調査を行ってきた。被害者は隔離拘禁され、「自白」をさせられるために拷問を受けているという。

人権活動家、ジャーナリスト、弁護士を沈黙させようとする試み

 上記のような人権侵害を告発しようとする人々は、自身も人権侵害の被害者となる危険性が極めて高い。多くの人権活動家やジャーナリスト、弁護士がアムネスティ・インターナショナルに明らかにしたところによると、かれらは、仕事を続けたり、自身や家族が脅迫されていることを報告したりするだけで、「ツケを払う」ことになると政府当局者から脅迫されているという。こうした事情により、アムネスティ・インターナショナルは、本報告書では数名を典型例として挙げておくにとどめる。脅迫の恐れがあるため、現地のジャーナリストにはペンネームを使っている人が多い*5。脅迫や嫌がらせを受けた人権派弁護士もいる。人権活動家も脅迫されており、現地で活動している組織もNGO規制法のもとで多くの査察を受けなければならない。NGO規制法は2006年に発効したが、実際には人権活動家を脅迫するために恣意的に運用されている。

  • オレグ・オルロフと3人のテレビクルー(REN TV)の誘拐

 2007年の11月23日から24日にかけての夜半、迷彩服に身を包んだ武装集団が、イングーシ・ナズランのホテルに侵入し、人権センター「メモリアル」のオレグ・オルロフ代表と、ロシア・テレビ局「REN TV」の3人のジャーナリスト―アルテム・ヴィソツキー、カレン・サヒノフ、スタニスラフ・ゴリアチフ―を叩き起こして連れ去った。武装集団は、コンピュータや所持金、ノート、服、携帯電話といった4人の所持品をあらかたホテルから持ち去り、4人の頭にビニール袋をかぶせ、銃を突きつけて脅した。4人は、連行された先で、二時間殴打された後、放置された。ホテルから連れ去られるときに上着を着たり靴を履いたりする時間もなかったため、4人は裸足のままネステロフスカイア村の最寄の警察署までたどり着き、助けを求めた。

 ロシア通信社のインターファックスが警察筋として伝えたところによると、4人を誘拐したのは「軍隊」だったという。

 11月24日朝、4人はナズランの警察本部に連行され、誘拐と虐待に関して証言をした。4人は警察署で診察を受け、アルテム・ヴィソツキーは緊急入院を勧められた。ところが、警察はヴィソツキーの入院を許可せず、3人のジャーナリストが取り調べから解放されたのは午後1時になってからだった。オレグ・オルロフは一足早く午前11時半頃解放された。

 本報告書の執筆時点で、イングーシ検察庁の捜査委員会が刑事捜査を始めている。捜査は、下記のロシア刑事法の条項に基づく。「プライバシーの権利を侵害した罪」(1章 第139条)、「ジャーナリストの法的活動に対する職権濫用」(1章 第144条)、「生命と心身に別条のない集団強盗(または未遂)」(2章 第161条)。すなわち、執筆時点では、「誘拐」(第126条)に対する捜査も、「脅迫または心身への深刻な暴行」に対する捜査も行われていない。

  • 人権活動家マゴメッド・ムツォルゴフへの脅迫

 ムツォルゴフが人権活動を始めたのは、彼の兄弟のバシル・ムルツォゴフが、イングーシ・カラブラクの自宅の外で、覆面をした男たちに拘束され、2003年12月に強制失踪したことがきっかけだった。強制失踪者の家族たちと共に、ムツォルゴフは、MASHR(「平和」を意味する)という人権団体―2005年に「MASHR」という非営利組織として正式に登録している団体―を設立した。MASHRは、失踪者の家族、拷問や虐待の被害者を支援し、かれらが当局に訴える際に援助をしている。また、イングーシにおける人権侵害の被害者の立場に立ち、そうした情報を公開し、そのための活動を組織している。

 2007年5月初頭、イングーシ・ドメインのウェブサイト、ingushetiya.ruは、治安当局者と名乗る匿名の人物からの手紙を公開した。その人物は、「どんな手段を使ってでも」― ポケットに麻薬や弾薬を押し込めてでも―マゴメッド・ムツォルゴフに対する刑事事件を捏造することを仄めかす同僚の会話を耳にしたという。5月下旬に、アムネスティ・インターナショナルがムツォルゴフにその件について話したところ、どうやらムツォルゴフとオフィスは監視されているようだった。また、イングーシ政府の職員の間で、ムツォルゴフが当局にとって好ましくない人物であり、職員は施設内で彼と会ってはならないという内部命令が出回っていたという。ムツォルゴフは、明らかにその活動のために、様々な間接的な脅迫を受けている。2007年9月には、ムツォルゴフは、若い男性―彼が当局への訴えを支援した、拷問の被害者―から、拘束者たちが「ムツォルゴフを消そう」と話しているのを聞いたという。

 2007年11月初頭、ムツォルゴフがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、彼のカラブラクの自宅に名前を名乗らない人物が訪れてきたという。その男性は、ムツォルゴフを2007年12月31日までに殺害する計画があることを関係者から耳にしたという。ムツォルゴフは、一連の件が、彼を脅迫するための計画なのか、真剣に受け止めるべきなのか、図りかねている。彼は用心をしているが、人権活動をやめるつもりはないという。

 マゴメッド・ムツォルゴフによると、2006年以降、MASHRは、税務当局や連邦登録局(FRS)、イングーシ検察庁から、活動に関して多くの査察を受けているという。連邦登録局は、2007年に二度MASHRを査察し、組織名を変え、非営利地域人権団体「MASHR」という新しい名前で再登録をするよう命令した。ムツォルゴフは、当局に組織の活動を査察する権限があることを認めてはいるが、頻繁な査察と再登録の要求は、彼の人権活動を妨害し、 MASHRがこれ以上活動を続けることを妨げようとするものだと考えている。

  • 人権派弁護士に対する刑事裁判のでっちあげ

 イリーナ・コジャエワは北オセチア共和国の弁護士協会に所属する弁護士である。ここ数年、彼女は武装集団への参加を疑われ、自白を強制するために拷問を受けた何人かの人々の弁護士を務めてきた。2007年8月28日、コジャエワは、依頼人の一人であるナジル・シャムスディノヴィッチ・ムジャホエフへの接見を妨害された。ムジャホエフは、「テロ」行為に関与した疑いで尋問を受けるために、北オセチアウラジカフカスの審理前拘留所から、北オセチア内務省の一時収容施設に移されてきたところだった。捜査官は、コジャエワが彼の代理人になることにムジャホエフが同意したと告げた。コジャエワは、捜査官が彼女の依頼人の決定を確定する書類を一つも作らなかったため、訴訟が正式なものではないのではないかと危惧した。また、他の依頼人たちが似たような状況で拷問と虐待を受けたことがあるため、彼女には今回も依頼人が拷問や虐待を受けることになるのではないかと懸念する充分な理由があった。

 彼女が、依頼人と接見することになっている内務省のビルに入ろうとしたところ、彼女は捜査官に頭を殴られ、ドアから押し出されたという。彼女はドアのふちに頭をぶつけ―そのときは気づいていなかったが―脳震盪を起こした。コジャエワは、その後、捜査官に対する刑事訴訟をするよう検察庁に要求した。けれども、検察庁は、犯罪が行われたことが立証できないという理由で、彼女の要求を退けた。それどころか、捜査官は、彼女が自分に襲いかかってきたとして、彼女に対する抗議を検察庁に申し立てた。検察庁の結論は、コジャエワが法執行機関の業務を妨害し、暴力を振るったという理由で、彼女に対する刑事訴訟を開始することが適切だというものだった。

人権活動家に対する「テロリスト」「過激派」のレッテル貼り

 北コーカサスでは、不安定な情勢が蔓延し、ここ数年、当局が定期的に「対テロ作戦」を実施して反体制派を弾圧しており、当局に立ち向かい―テロリストの嫌疑をかけられている人々の権利を含めて―人権の擁護を主張する人権活動家は、自分自身が「テロリスト」ないし「過激派」のレッテルを貼られることがある。こうした嫌疑は、しばしばかれらの職務上の信用を貶め、職務を妨害する手段として利用されている。アムネスティ・インターナショナルは、人権活動家が、他者の人権を守ろうとするだけで、人権侵害に直面するという傾向を見出した。

 また、アムネスティ・インターナショナルは、過激派行為を取り締まる2002年の法律―2007年に修正されて最新版になった―が、表現の自由や、人権活動家とジャーナリストの職務を制限するために利用されていることを懸念している。法律が規定している「過激主義」の定義は曖昧で、恣意的に利用される恐れがある。

  • 人権活動家オスマン・ボリエフへの拷問と虐待

 人権活動家で、ダゲスタン共和国NGO「Romashka」(「ヒナギク」という意味)の元代表オスマン・ボリエフは、欧州人権裁判所への提訴を進めるために、 NGO国際保護センターのロシア人弁護士カリンナ・モスカレンコと共に働いていた。ボリエフがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、彼は、自分が外国のスパイであり、テロの「支援者」であると自白させられるために、2005年11月に拘束され、拷問を受けたという。

 ボリエフの供述によると、2005年11月15日、彼は未然に終わった事故について尋問を受けるために、ダゲスタン・ハサブユルトの地元交通警察官から地元の警察署に来るよう要求された。警察署に着くなり、ボリエフは警察官数人がすでに乗り込んでいる別の車に乗るよう促された。

 ボリエフはアムネスティ・インターナショナルに以下のように語った。

 「彼らはすぐさま私に手錠をかけ、頭にフードをかぶせました。私は息ができなくなり、意識を失いました。気がつくと、私は部屋にいて、椅子に縛りつけられていました。私は、殴られたり蹴られたり、腕をねじ上げられたりしました。私が床に崩れ落ちると、彼らは飛び上がって私の頭を踏みつけ、外国のスパイであることを認めろ、どの特殊機関で訓練を受けたかを白状しろ、と言いました。彼らは、私が誰のために働いているかということを、私に白状させようとしていたのです。私はこう言いました。『私は人権活動家で、人々のために働いている。あなたたちも何かトラブルに巻き込まれたら、私のところへ来るといい』。彼らはバカにされたと思ったのか、私をますます殴ったり蹴ったりしてきました。彼らは、私が協力をしなければ、私の家族を殺し、私をチェチェンに連行して自爆テロ犯に仕立て上げてやると脅しました。そして、彼らは手榴弾を持ってきて、その手榴弾が私のものであると言ったのです。私は耳を殴られて、ずっと頭がガンガン鳴っていたので、彼らが何を言っているのかは正確には解りませんでした。私は三日間近く拷問を受けましたが、当時はどれくらいの期間そこにいたのかも、今が昼なのか夜なのかも解りませんでした。私は手錠をかけられたままでした。手の感覚はすでにありませんでした。彼らは私の腕を背中に回して、飛び上がって私の背中を蹴りつけました」

 11月17日、オスマン・ボリエフは、すでに歩くこともできなくなっていたが、当局は、拘留の延長許可を求めるために、彼を裁判官の前に連れ出してきた。ボリエフが裁判官に向かって拷問を受けたことを訴え、どのように拷問されたかを語ったときには、彼の供述を聞いていられなくなった裁判官の補佐が退席したという。ところが、裁判官は、拷問の訴えについて捜査を行うための措置を何一つ取らなかった。ボリエフは審理前拘留所に移され、武器の不法所持の容疑で正式に告訴された。ボリエフがアムネスティに語ったところによると、その後、救急車を呼んで応急手当を受けた彼のもとにようやく弁護士がやって来たという。

 国際NGOとロシアのNGOが拘留に抗議したにもかかわらず、オスマン・ボリエフは、2006年2月13日まで拘留されていた。その時点までに、拷問と適切な治療が受けられなかったことによって、ボリエフは深刻に健康を損なっていた。呼吸障害と心臓病により、ボリエフは裁判が始まるまで釈放されることになった。2006年5月、ボリエフはハサブユルトの裁判所で無罪放免判決を受けたが、6月にまでには彼に対して新たな告訴が準備されていた。

 2006年7月にアムネスティ・インターナショナルと面会したとき、ボリエフは自分が新たに告訴され、再び拘留されるかもしれないことを恐れていた。その後、ボリエフはロシア連邦から逃れ、第三国で亡命を認められた。彼に対する恣意的な拘禁と拷問に関する刑事裁判が始まったが、リエフが知る限り、裁判は「犯罪の証拠が認められなかった」ために終了したという。Romashkaのオスマン・ボリエフの元同僚たちは、活動をやめるよう当局から圧力をかけられた。Romashkaは、NGO規制法の条項を受けて―当局に何の活動も報告できていないという理由で―2007年の始めに閉鎖された。

  • 「人種間憎悪」を助長する(と当局が主張する)出版物

 イングーシに本部を置くNGOチェチェン救国委員会」は、北コーカサス―とりわけチェチェン―の状況を監視している。2004年以来、委員会は、チェチェン情勢について「過激主義」的で根拠のない情報を流布しているとして当局に糾弾され、閉鎖の危機に直面している。委員会は、強制失踪や拘留、拷問、チェチェンの国内避難民に提供されているイングーシの一時滞在施設の状況について、プレスリリースと報告書を発行している。また、人権派弁護士のための訓練プログラムと、北コーカサスの人権状況についての円卓会議を組織している。

 2004年8月、イングーシ検察庁は、チェチェン救国委員会が発行した12本のプレスリリースが「過激主義」的であり、チェチェン民族とその他の民族との間の人種間憎悪を助長するものであると見なした。問題のプレスリリースには、チェチェンとイングーシにおける恣意的な拘留と拷問、虐待についての情報が含まれていた。それらのプレスリリースが発行されたのは、2004年6月に武装グループがイングーシの政府施設を襲撃し、イングーシの一時滞在施設に住んでいた複数のチェチェン人が、襲撃に参加した疑いで拘束された後のことだった。

 アムネスティ・インターナショナルは、問題のプレスリリースをチェックしたが、それらが「過激主義」的であるとは思われない*6。当初、イングーシ・ナズランの裁判所も、問題のプレスリリースを「過激主義」的内容であると判断する理由を見出せなかった。ところが、2005年2月、イングーシ最高裁は、この決定を覆し、裁判所にプレスリリースの内容を再度吟味するよう命令した。チェチェン救国委員会のルスラン・バダロフ代表は、様々な独立系専門家にプレスリリースを分析するよう依頼した。その中には、結社の自由の侵害など、人権侵害の訴えに関する多くの事例について専門的意見を提供しているNGO―独立法律顧問評議会―もあった。バダロフは、ロシア科学アカデミーと、北コーカサスの大学の言語機関のメンバーとコンタクトを取り、問題のプレスリリースの内容について分析と専門的意見を求めた。こうした専門家の意見はすべてイングーシ・ナズランの裁判所に提出されたが、11月初旬現在、まだ判決は下りていない。

 ルスラン・バダロフがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、2007年8月にロシア連邦登録局はチェチェン救国委員会の活動に関する二度目の査察を年内に行うよう命令したという。2006年に発効したNGO規制法によると、当局は、例外的な状況においてのみ、登録NGOに対して文書や活動に関する査察を一年に二回以上行うことができる。委員会の活動と財政状況は、最近監査を終えたところで、新たな査察命令が出される10日前に必要な書類をすべて当局に提出したばかりだった。バダロフによると、連邦登録局のイングーシ支部から、委員会がNGO規制法に抵触しており、新たな査察を行わなければならないという情報が寄せられたという通知が来たという。本報告書執筆時点で、バダロフには、何がNGO規制法への抵触にあたるのかといった詳細な情報は与えられていない。

集会の自由に対する規制

 ロシア当局は、人権活動家と地元政府との会合で、ロシア連邦では、昨年のデモやピケ、会合、集会に対する警察の対応が、EU加盟国として、必ずしも適切なものではなかったことを認めている。ロシア当局は、集会の自由がより保障されるように、市民集会やデモを担当する政府部門の業務を改善する姿勢を見せた。以下の事例は、当局が対処しなければならない問題を示している。

 2006年10月7日にアンナ・ポリトコフスカヤが暗殺された後、ロシア連邦を含む世界各地で、彼女の追悼集会が開かれた。ところが、2006年10月16日にイングーシ・ナズランで人権活動家が追悼集会を開催した際には、集会は警察官と私服の男たちに暴力的に粉砕されてしまった。アンナ・ポリトコフスカヤの写真は踏みつけられ、参加者は殴打されたという。私服の男の一人は、人権センター「メモリアル」の参加者エカテリーナ・ソキリアンスカイアを殴り、失神をさせた挙句に鼻の骨を折った。ナズランの検察庁から派遣された捜査官は、暴行についてエカテリーナ・ソキリアンスカイアに質問したが、2006年11月7日付で下された決定は、刑事裁判を始める必要はないというものだった。この決定を、その後ナズランの副検察官が覆し、ナズランの検察庁で再び審理が行われ、刑事裁判が始まることになった。本報告書執筆時点で、暴行から一年以上が経っているが、この件に関して裁かれた人間は一人もいない。

 追悼集会の後、少なくとも5人―女性が3人、男性が2人で、全員が地元の人権活動家―が警察に拘束され、行政犯罪の罪を問われた。アムネスティ・インターナショナルが当日の夕方にナズランの警察署に電話をかけたところ、被拘留者には弁護士への接見が認められているということだった。ところが、一方で、アムネスティ・インターナショナルは、NGO「メモリアル」から、弁護士が被拘留者への接見を拒否されているという情報を得た。メモリアルによると、人権活動家たちは6時間―ロシア連邦行政法のもとで認められている最大3時間の二倍―にわたって拘留されたという。

 裁判所は、人権活動家のうち4人に対しては、いかなる法律にも違反していないという判断を下した。5人目―追悼集会を公式に組織した、人権団体MASHR の代表、マゴメッド・ムツォルゴフ―は、ピケを組織する手続きに違反があったとして、1000ルーブル(38ドル)の罰金を課された。ムツォルゴフがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、彼は手続きを遵守して、当局に必要な情報を事前に通告していたという。ムツォルゴフは量刑に異議を申し立てたが、最終的な決定はまだ下されていない。メモリアルは、複数の参加者に対する違法な拘禁に関して起こされた、ナズランの裁判所への訴状を保管している。ナズラン市裁判所も、イングーシ最高裁も、訴えを棄却した。

  • 強制失踪に反対するデモを粉砕

 報告によると、ダゲスタンでは、ここ数年で、大勢の人々が強制失踪させられたり誘拐されたりしている。こうした被害者の友人や家族のグループ―「人権を求めるダゲスタンの母親たち」―は、2007年8月10日、ダゲスタンの首都マハチカラでピケを張った。彼女たちの目的は、こうした失踪や誘拐を終わらせるための措置を求めることだった。ピケに参加した多くの人々が、ダゲスタンの人権状況―とりわけ誘拐と強制失踪の問題―への注目を集めるためにハンガーストライキを始めた。ピケの主催者たちがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、彼女たちは、法律に則り、当局にピケを張る事前通告をし、ピケの10日前に必要な情報を提出していたという。

 目撃者によると、約30〜40人の人々が、プラカードを掲げて、8月10日の午後、政府機関の前に集まったという。ところが、警察官がやって来て、主催者の一人に対して、ピケが許可されていないこと、解散しなければならないことを告げた。主催者はピケの許可を取っていると主張したが、警察官はピケを蹴散らすよう同僚に命令した。

 アムネスティ・インターナショナルが得た情報によると、警察官はその後参加者を杖などで殴り始め、広場から引きずり出したという。少なくとも一人の女性 ―グルナラ・ルスタモヴァ―が頭を殴られ、脳震盪と思われる症状を負った。三日後、彼女は、アムネスティ・インターナショナルに対して、まだ眩暈がすること、記憶力が落ちているということを語った。

 ルスタモヴァによると、警察官はピケの参加者よりはるかに多かったという。

 ルスタモヴァがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、警察は3人の男性を拘束してマハチカラのソヴィエツキ地区警察署に連行したという。男性のうち一人は、ピケの参加者ではなく、警察官が参加者を殴打するのをやめさせようと介入した目撃者だったという。彼は同日に釈放されたが、二人目のムルトゥズ・シャフルラエフは翌日まで釈放されず、三人目のイズマイル・ブッダエフにいたっては8月12日まで釈放されなかった。

 イズマイル・ブッダエフの姉妹がアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、ブッダエフは拘束中に弁護士への接見を認められなかったという。当局はこうした事件で法的に認められている三時間以内に彼を釈放したと主張したが、三時間後にも彼は警察署にいたという。ブッダエフは「警察官の命令に従わなかった」罪(ロシア連邦刑事法第1章318条)に問われた。

 8月15日、マハチカラの裁判所は、イズマイル・ブッダエフを無罪放免にし、「人権を求めるダゲスタンの母親たち」が集会や会合、デモ、ピケの手続きに関して合法的だったと判断した。裁判所は、警察の行動が違法だったことを認めたという。アムネスティ・インターナショナルは、ピケを暴力的に排除し、参加者を虐待し、恣意的な拘禁を行い、市民集会を開くという憲法で保障された権利を侵害した警察官に対して懲戒処分や刑事訴訟が行われたということを寡聞にして知らない。「人権を求めるダゲスタンの母親たち」は、今も行方不明の家族の行方についての情報を求めている。

人権団体と政治活動家に対する迫害

  • ロシア・チェチェン友好協会のスタニスラフ・ドミトリエフスキーたち

 ニジニ・ノブゴロド市出身のスタニスラフ・ドミトリエフスキーは、北コーカサスの人権状況を容赦なく批判し、政治活動を行っていたために、日増しに圧力をかけられるようになった。ドミトリエフスキーは、第一次チェチェン戦争(1994〜1996年)中に人権活動を開始し、1999年にはロシア・チェチェン問題に関わる多くの活動家とともにロシア・チェチェン友好協会を設立した。

 ロシア・チェチェン友好協会は、人権侵害の被害者を支援し、紛争の犠牲者に対する医療支援を組織化し、戦争犯罪と人権侵害について報告していた*7。ニジニ・ノブゴロドの他の人権NGOと同じように、ロシア・チェチェン友好協会は、「プラヴォザシチタ」*8という広報を発行していた。数年間にわたって、アムネスティ・インターナショナルはロシア・チェチェン友好協会の状況を詳細に追いかけ、協会のスタッフやボランティアが拷問や強制失踪、超法規的処刑*9といった人権侵害にさらされてきたケースがいくつもあることを確認した。協会に所属していたチェチェン人のメンバー数名は、深刻な脅迫を受けた後、ロシア連邦から亡命した。協会のボランティアをしていたアスラン・ダヴレトゥカエフは、2004年1月9日、チェチェン共和国のアルグンで、法執行当局者の手で自宅から連れ去られた。2004年1月16日、チェチェン共和国のグデルメス近郊で、ダヴレトゥカエフの切断された遺体が発見された。遺族は、彼を殺害した人間が裁かれることを待ち望んでいる。

 2005年、スタニスラフ・ドミトリエフスキーは、プラヴォザシチタの記事にチェチェン独立派指導者の発言を掲載したために、人種・民族間憎悪を煽ったとして、罪に問われた。2006年2月3日、ドミトリエフスキーは、「人種・民族間の憎悪または嫌悪を煽動」(ロシア刑事法第2章282条)したとして有罪判決を受けた。ニジニ・ノブゴロド地方裁判所は、ドミトリエフスキーに対して、二年の執行猶予と四年の保護観察処分を下した。四年間、ドミトリエフスキーは、引越しや旅行の際に当局に報告をしなければならず、地方当局に定期的に報告をしなければならない。アムネスティ・インターナショナルは、ドミトリエフスキーの出版物が人種間・民族間の憎悪を煽るものであるとは考えていない。もしも、ドミトリエフスキーが収容されていれば、アムネスティ・インターナショナルは、彼を良心の囚人として扱っただろう。

 この有罪判決を受けて、2006年10月、ニジニ・ノブゴロド地方裁判所は、ロシア・チェチェン友好協会に閉鎖を命じた。

 NGO規制法によると、「過激派」と見なされる犯罪を犯した人間は、NGOの代表はもちろん、メンバーにさえなることもできない*10。2007年1月、ロシア連邦最高裁は、この判決を支持した。最高裁での意見聴取の後、ドミトリエフスキーがアムネスティ・インターナショナルに語ったところによると、ロシア・チェチェン友好協会はストラスブルグの欧州人権裁判所に訴えていくという。

 ドミトリエフスキーは以下のように語った。

 「最高裁の判決は、市民社会だけでなくロシア全体にとって危険なものです。これは政治的な決定であり、明らかにロシア当局が市民社会を気に掛けていないことを物語っています。判決は誤ったメッセージを発し、国際社会は注目せざるをえないでしょう。私たちは、ニジニ・ノブゴロドの最初の判決が不当なものであると訴えています。最高裁の決定によって、私たちには多くの行政上の問題が負わされましたが、私たちはそれでも人権活動を続けていきます」

 2007年8月17日、ニジニ・ノブゴロドのソヴィエツキー地区裁判所は、スタニスラフ・ドミトリエフスキーにより厳重な制裁を課す決定を下した。裁判所の判決は、連邦刑罰履行局のニジニ・ノブゴロド支局の訴えに応じるものだった。訴えは、ドミトリエフスキーが、2007年4月にモスクワで「不同意者の行進」を組織し、それに参加した後に起こされた。ドミトリエフスキーは、ロシア連邦行政法に違反した罪で有罪判決を受けた。デモの主催者はモスクワのプーシキン広場で集会をする予定だったが、当局は集会の開催許可を出さなかった。スタニスラフ・ドミトリエフスキーは、予定されていた集会に先立って、ロシア憲法のコピーを配布していたところ、プーシキン広場の近くで拘束された。この判決が実行されれば、行政法に対して違反をしたということになりさえすれば、ドミトリエフスキーは執行猶予を取り消されて収容されかねない。軽微な行政犯罪―信号を無視して道路を横断すること―さえ、そうした結果を招きかねない。ドミトリエフスキーは、地区裁判所の判決に異議を申し立てた。2007年10月26日、ニジニ・ノブゴロド市裁判所は訴えを受理し、地方裁判所の別の裁判官に再審を要求したが、11月23日にはドミトリエフスキーに対してまた制裁が課された。

 2007年4月、ロシア・チェチェン友好協会の元メンバー数名が、フィンランドで協会を再登録する可能性を模索し、ロシア・チェチェン情報局の仕事を続けながら、「寛容を支援するためのニジニ・ノブゴロド財団」という新しい組織を立ち上げた*11。2007年8月末、検察当局は、「寛容を支援するためのニジニ・ノブゴロド財団」のコンピュータを没収し、不正なコンピュータ・ソフトウェアを使用したという容疑で刑事裁判を開始した。財団は、アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺一周忌を前に、人権と民主主義をテーマにした国際会議を企画していた。ところが、9月半ば、財団が口座を持つ銀行の支部から、財団の会計係に対して、契約を解消するという連絡が入った。財団の代表で、ロシア・チェチェン情報局の編集者のオクサナ・チェリシェヴァによると、財団が「過激主義団体」である疑いがあるという話が銀行に持ち込まれたという。会議が予定されていた10月5日には、主催者が予約していた部屋は利用できなくなった。翌日、ニジニ・ノブゴロド検察庁は、財団の施設に対する新たな査察を開始した。財団のボランティアの車が―持ち主が座席に座っており、所有証明書を提示できたにもかかわらず―盗難車の疑いがあるとして、警察に数時間没収された。10月6日、ニジニ・ノブゴロドで会議に出席するはずだった国際人権団体の代表5人が、連邦移民局に数時間拘束され、行政法に違反したとして罰金を課された。

 当時、2007年9月13日にウィーンで開催される欧州安全保障協力機構(OSCE)会議にロシア・チェチェン友好協会を参加させないために、ロシア当局がOSCE議長国のスペインに圧力をかけていることが明らかになっていた。ロシアの代表団は、ロシア・チェチェン友好協会がテロと過激行為に関与していると訴え、協会が会議に参加するならロシアは離席すると議長国を脅迫していた。2007年10月、ワルシャワで、オクサナ・チェリシェヴァがOSCEの人権推進会議に参加して発言をした際には、ロシアの代表団は抗議のために部屋を去った。

勧告

 国内法および国際的な責務に従って、人権侵害を監視・記録し、人権侵害の被害者を支援しようとする人々を尊重すること。かれらの仕事が、ロシア連邦における人権を守るために不可欠の要素であると認識すること。

  • ロシア政府に対する勧告

 国連の人権擁護者に関する宣言と、国連の弁護士の役割に関する基本原則に則り、人権活動家と弁護士が障害や脅迫、嫌がらせを受けることなく職務を遂行する権利を尊重し、それを擁護すること。

 欧州人権裁判所および「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に明記されている表現の自由、集会の自由、結社の自由の権利を保障すること。

 国際基準に従って、表現の自由、集会の自由、結社の自由の権利について、法執行当局者に明確なガイドラインを提示すること。

 人権活動家や弁護士、ジャーナリストに対するあらゆる人権侵害について、迅速かつ徹底的に、独立した公平な調査を行い、野放しになってきた人権侵害の加害者を法のもとで裁くこと。

 表現の自由を平和的に行使している人権活動家に対して「テロリスト」や「過激派」のレッテルを貼るといった脅迫や主張、根拠のない糾弾をやめること。

  • 州政府に対する勧告

 ロシア当局には、北コーカサスにおいても、表現の自由、集会の自由、結社の自由を擁護する義務があるということを銘記すること。

 人権活動家やジャーナリストが北コーカサスなどからロシア連邦を訪れた際には会合を行うこと。

  • EUおよびEU加盟国に対する勧告

 人権活動家に関するEUガイドラインを遵守すること。

*1:ポリトコフスカヤは2001年2月と2002年2月に恣意的に拘束された。2002年にはロシア国内外で即座に抗議が起こったために釈放された。2004年6月には、ポリトコフスカヤはチェチェン共和国の副首相(当時)のラムザン・カディロフにインタビューを行い、数時間自宅に拘束された。

*2:正式な名称は、「普遍的な人権および基本的自由を推進し、擁護するための個人、集団および社会組織の権利と責任に関する宣言」(国連の人権擁護者に関する宣言)。第二条と第八条より。

*3:最近まで、大半のロシアの携帯電話会社はチェチェン基地局を持っておらず、チェチェン以外のロシアからチェチェンに携帯電話をかけることは難しかった。

*4:本報告書執筆時点で、こうしたインターネット・サイトの一つであるwww.ingushetiya.ruへのアクセスはイングーシ内で遮断されている。同サイトを閉鎖させようという動きは以前から見られる。

*5:例えば、「戦争と平和の報道機関」(IWPR)に寄稿しているジャーナリストには、好んでペンネームを使うジャーナリストがいる。

*6:チェチェン救国委員会は、イングーシ当局が人権侵害に関与しているとする情報を発表した最初の団体の一つだった。

*7:報告書は別の名義の団体―ロシア・チェチェン情報局―が発行していた。

*8:「プラヴォザシチタ」は、権利の擁護を意味する言葉で、しばしば人権の擁護と同じ意味で用いられる表現である。

*9:「ロシア連邦:語ることのリスク」(AI Index: EUR 46/059/2004)などを参照。

*10:公共団体に関する連邦法第4章2条。

*11:ロシア・チェチェン友好協会は、2007年10月にフィンランドで正式に登録された。