チェチェン人権情報その1

強制失踪について:

欧州人権裁判所、強制失踪事件にロシア政府の関与を認定

http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100615/1276589981

 2002年に、チェチェン人のマゴメッド・サレフとマゴメッド・アリ・イサーエフの兄弟が、IDカードを提示できなかったために、連邦職員に拘束され、その家族まで虐待された事件があり、母親のジュグルハン・イリアソーワが、欧州人権裁判所(ECHR)に提訴し、2010年6月10日、ロシア連邦政府に責任があるという判決が下った。

 イリアソーワによれば、2002年11月12日、自宅に押し入ってきたロシア治安部隊に二人の息子が拘束された。彼女は拘束の理由を明らかにするように求めたが、軽機関銃で殴られた。隊員たちは、3人めの息子であるマゴメッド・サイードも拘束しようとして家の外に連れていこうとしたが、彼女が叫びだしたために、〈母親を落ち着かせるため〉にサイードは戻された。そのとき、サレフとアリは軍の装甲車に乗せられ、いずこかへ連れ去られた。

 2002年11月以来、提訴人であるイリアソーワと親族、友人たちは、イリアソフ兄弟の行方を捜すとともに、この強制失踪の責任者の訴追を試みてきた。彼らはロシア刑法126 条2項に定める誘拐の容疑で法廷に告訴したが、審理は何度も中断され、手続きも頻繁に変更された。そのため、ロシア政府当局による捜査には望みがないと判断し、ECHRへの提訴となった。

 ECHRでは、この他にも100件以上の判決が、ロシア・チェチェン紛争に関して下りており、ほぼすべての判決がロシア政府の責任を認め、賠償を命じている。

チェチェンに関係する著名人に対する殺人:

ロシア連邦内では、チェチェンに関係する人物の殺害が続いている。これらの被害者のほとんどは、ジャーナリストや人権活動家で、チェチェンでの人権侵害や、強制失踪の実状を告発していた。決して、独立派武装勢力に関与していた人々ではない。中立的な立場の人間が、人権侵害に異を唱えるだけで、何者かに抹殺されている現状の中では、ごく普通の市民(common peoples)や、独立派武装勢力に参加し、ロシア軍の軍事侵攻に抵抗する活動を行っていた人士に至っては、さらに大きな危険に晒されていると考えなければならない。以下に例を挙げる。

アンナ・ポリトコフスカヤ(Ms. Anna Politkovskaya ジャーナリスト)
 2006年10月7日、自宅の集合住宅のエレベーターで何者かに銃殺された。
1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝え、数々の文学賞、人権賞を受賞。2002年、モスクワ劇場占拠事件では、武装グループから仲介役を指名され、交渉にあたった。2004年の北オセチア・ベスラン学校占拠人質事件では、空路北オセチアに向かうが機内で毒を盛られ、一時重態になった。

・ナタリア・エステミロワ(Ms. Natalia Estemirova 人権活動家)
 2009年7月15日、グローズヌイで誘拐されたのち銃殺。同日イングーシ共和国で遺体で発見された。チェチェンのグロズヌイで活動するロシアの人権NGO「メモリアル」の中心的な活動家。欧州議会のロベール・シューマン賞(2005年)、スウェーデン議会のライト・ライブリフッド賞(2004年。もう一つのノーベル平和賞と呼ばれている)、そして第1回アンナ・ポリトコフスカヤ賞(2007年)など、数多くの賞を受賞した。

・スタニスラフ・マルケロフさん(Mr. Stanislav Markelov 弁護士)
 2009年1月19日、モスクワ市内で殺害された。チェチェンでの人権侵害事件を中心に弁護活動を行っていた。チェチェン人少女エリザ・クンガーエワさんを強姦・絞殺したロシア軍のユーリー・ブダーノフ大佐の裁判で遺族側代理人を務め、大佐が刑期前に釈放されたことに抗議する記者会見を開いた直後、路上で殺された。

・アナスタシア・バブロワ(Ms. Anastasia Baburova ジャーナリスト)
 2009年1月19日、モスクワ市内で殺害された。アンナ・ポリトコフスカヤと同じ「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙の若手記者で、現代ロシアのファシズム運動について取材していた。マルケロフ弁護士と同時に殺害された。

・マクシャリプ・アウシェフ(Mr. Maksharip Aushev 人権・政治活動家
 2009年10月25日、カバルディノ・バルカリア共和国で何者かに銃撃され、殺害された。チェチェンの隣国、イングーシ共和国の有力な活動家。また、治安機関による強制失踪被害者のため救援活動を推進する一方、ジアジコフの次のエフクロフ政権とは協力関係を作り、山岳部の武装勢力との仲介役になり、若者たちの社会復帰を進めていた。

・ヴィクトル・ポプコフ(Mr. Viktor Popkov 人権活動家)
 2001年4月18日に、チェチェンでの人道支援活動中に銃撃され、同年6月2日にモスクワの病院で死亡した。平和団体「オメガ」代表。市民の立場からのチェチェン問題への介入を、国際社会に強く求めていた。

ザレマ・サドゥラエワ(Ms. Zarema Sadulayeva 人権活動家)
 2009年8月10日に何者かに誘拐され、翌11日に銃殺遺体で発見されたザレマ・サドゥラエワさんは、ロシアの慈善団体「レッツ・セーブ・ザ・チルドレン」の代表だった。同団体はチェチェンにおいて暴力の被害にあった子どもたちを支援しており、国連児童基金UNICEF)と緊密に連携して活動していた。

・アリク・ジャブライロフ(Mr. Alik (Umar) Dzhabrailov 人権活動家)
 ザレマ・サドゥラエワさんの夫。同時に殺害された。

アスランマスハドフ(Mr. Aslan Maskhadov 政治家)
 2005年3月8日、ロシア連邦保安局の特殊作戦によりトルストイ・ユルトで暗殺されたチェチェン共和国大統領。「ロシアとの交渉による終戦と、ロシア連邦内におけるチェチェンの高度な自治の獲得」を求めた穏健派指導者。

・マゴメッド・エブロエフ(Mr.Magomed Yevloyev ジャーナリスト・活動家)
 2008年8月31日、イングーシ共和国で警察に殺害された。イングーシの反体制派インターネットサイトの管理人で、ジャーナリスト、政治活動家

さらに、

チェチェンは平和になった」というのが、現在のロシア政府と、
現地の傀儡政権が口を合わせて言うところですが、2009年4月に「対テロ作戦体制」が解除された時点で、まったくそうでなかったことが明らかになっています。この点についての報告書がありましたので、ひとまず戦闘状況について送ります。新しい事実も多少あるかもしれないので、さらに読み進みます。

「メモリアル」人権センターによる2009年春の報告書『北コーカサス紛争地の情勢:人権状況からの分析』Bulletin of the Memorial Human Rights Center Situation in the North Caucasus conflict zone: analysis from the human rights perspective Spring 2009

(国連人道援助調整局のインターネットサイトに掲載されていたもの。メモリアルによる報告は、欧州人権裁判所でも証拠として採用されている)

以下に、チェチェン現地での戦闘の状況について抜書する。(2009年の春季の報告だが、その後、状況は同様に推移している):

2009年4月16日、ロシア政府対テロリズム委員会のボルトニコフ委員長(連邦保安庁FSB長官)は、チェチェンに1999年以来敷かれていた「対テロ作戦体制」の解除を宣言した。これによって、10年に及ぶ非公式の戦争に、公式の区切りがなされたことになる。しかし、現地での報道や、メモリアル職員の報告を総合すると、状況は作戦体制解除とは関係なく悪化していることが明らかである。

作戦体制解除と同時期の軍事衝突には、次のようなものがある:

3月29日、アフキンチュ・バルゾイで、ロシア内務省軍と、武装勢力15名ほどの間で戦闘があり、内務省軍側には死者がなく、武装勢力2人が死亡した。

3月末、ほぼ同時期に、チェチェン南部のヴェデノ地区、ネフトヤンカ村に30人から35人の武装勢力が進入し、警察署長を殺害し、現地の役所に彼らの旗を掲げた。同時に、数人の若者が武装勢力とともに姿を消した。それには警察署長の甥も含まれていた。

4月16日、件の対テロ作戦体制の解除の当日にも、チェチェン最南部のシャトイ地区ダイ村で、治安部隊と10人ほどの武装勢力との間で戦闘が起こった。この戦闘の前日、ヴェデノ地区、シャトイ地区、クルチャロイ地区で、多数の武器弾薬、爆薬類が発見される事件があった。

4月14日に、ロシア連邦保安庁の特殊部隊「ヴィンペル」の将校が、チェチェンで地雷の爆発によって死亡し、葬式が対テロ作戦体制解除当日の16日にモスクワで開かれたとの報道があった。

4月中に、チェチェン領内で少なくとも6回の武装衝突が報道されている。これら報道や、メモリアルのスタッフの得た情報によれば、砲撃、銃撃戦、爆破事件により、10人以上の死亡者、7人の負傷者が出た。

5月2日、ヴェデノ地区のヴェノイ村がロシア軍の砲撃を受けた。この地域が砲撃を受けるのはかなり稀。民間人1人が死亡、家屋1軒が破壊された。行政当局は、「砲兵隊のミスにすぎない」と発表した上、ジャーナリストらが破壊の跡を撮影することを禁止し、「メディアは良いニュースを中心に流すべきだ」と述べた。

5月15日、チェチェンの首都グローズヌイでは、自爆攻撃が起こった。攻撃者は市内中心部にある内務省本部の前で爆弾を爆発させ、4人の人々が死亡、5人が負傷した。特記すべき点は、攻撃者がよくある若年層ではなく、40歳の大学教育経験者で、ヨーロッパでチャンピオンになったこともあるレスリング選手のベスラン・チャギーエフという人物だったことである。(命を捨てて当局に復讐をしようとする人々が、若者だけでなく、分別を積んだ大人にまで及んでいるところに、状況の悪化が見て取れる)

各種の報道を集約すると、2009年春季だけでも、当局・治安部隊側に16人の死亡者、39人の負傷者が出ている。なお、2008年の同時期には20名の死亡者、21名の負傷者となっており、チェチェンでの戦闘は、対テロ作戦終了後も変化がないことがわかる。

4月21日、各地で戦闘が起こる中で、チェチェン内務相ムスリム・イサーエフは、「2009年1月から3月にかけ、イスラム原理主義に関連する犯罪やテロは1件も起きていない」と、報道陣に答えた。同じ日に、ロシア政府がチェチェンに置いた対テロ作戦部のスポークスマンは、同じ期間に「16件の武力攻撃、3件の砲撃、11件の爆破事件があった。治安部隊と警察に8人の死亡者、20人の負傷者が出た」と発表したが、これも被害を過小評価している可能性が高い。