寺沢潤世上人からの手紙

ワルシャワの寺沢上人からとどいたファックスです)
PDF版を作りました。縦書きなので読みやすいと思います:
http://chechennews.org/dl/20050527terasawa.pdf

南無妙法蓮華経


平成十七年
五月満月祭
ワルシャワ道場


合掌 若葉かおる五月晴れのポーランドから晴れわたる青空のように朗らかな法の勝利の法音をお伝えできることをうれしく思います。


去る四月八日のお花祭りの後日本を発ち、韓国の釜山、中国の北京、西安ウルムチ中央アジアキルギスタンの革命直後のビシケクなどを十日間のうちにかけぬけて、四月二十日より欧州ジュネーブに入り、国連人権委員会の最後の数日間の討議に、ウクライナからきたお弟子、チェチェンの二名の青年と共に合流し、参加いたしました。以来、近年よりの懸案であったヨーロッパにおけるチェチェン人自身の手による、民族絶滅の淵にあるチェチェン救国の新しい非暴力運動の提唱に着手いたしました。例年国連人権委員会チェチェンにおけるロシアの人権侵害を批判する決議案を提出してきた欧州連合EUは、二〇〇一年の九一一同時多発テロ以降、多数決議が取れず、今年は決議案自体の提出を見送りました。
一方やはり毎年アメリカが提出しいつも廃案に追い込まれていた、中国のチベット人権侵害の批判決議案も、今年は提出されませんでした。

国際政治力学は西側が人権問題でロシアと対立するよりも対テロ戦争イラク・アフガン復興、核拡散などの問題解決のための協調の道を選択せしめました。

しかしながら一方チェチェンにとってこれは国際社会がここ十年に及ぶロシアのチェチェン民族絶滅戦争という二十一世紀の戦争犯罪を黙認し、この犯罪の完全なる遂行に手を貸したことを意味します。国際社会から見捨てられたチェチェンでは今、民族精神そのものを徹底的に打ち砕き、民族自体を崩壊せしめる最後の段階に入りました。

ここからうかびあがってくるのはこの汚れ役にロシアを利用しつつ、ポストソ連における全コーカサスを西側とロシアで共同管理しようとするためのチェチェンジェノサイド共謀の構図です。

隷属以外のすべての道を奪われ、生きるためには同胞を裏切るか、山に入りレジスタンスに加わる他なく、明日への希望を完全にうばわれた一般市民には、ロシア国外への逃亡しか残されていません。

しかも合法的な越境は不可能で、家族離散し生き残る最後の力をふりしぼった逃避行が続いています。ヨーロッパに逃れついた人々の数はおそらく人口の十パーセント以上になるでしょう。東欧諸国の難民収容所はほとんどチェチェン人で溢れています。これらヨーロッパに逃れた多数のチェチェン人が今後それぞれどのような生き方をしていくのか、どのようなビジョンを形成し共有し、民族の再生を目指すのか、特に新しく育つ世代のこれからを注目せざるをえません。

今度、ドゥダエフ政権下で通信大臣を務めたことのあるストラスブルグ在住の老活動家が五名の若者を引き連れてパリからストラスブルグへの平和行進をはじめました。三年前無期限断食に入り病院に担ぎ込まれた彼を見舞い、エコーモスクワとの直接ラジオインタビューを用意することで、からくも命を取り留めたという思い出があります。この平和行進がストラスブルグ入りし、欧州評議会本部まで平和行進し、この前で集会する最後の数日間に参加することができました。

道中、テントを張って野営しつつ、各地でチェチェン難民家族の支援や地元ヨーロッパの人々の好意を受けて手作りの草の根的な行動がヨーロッパを舞台に始まりました。最終日の欧州評議会前までのデモ行進には、欧州各地、ブリュッセル、パリ、ケルン、ウィーンなどからバスで集結し、初めてここに全欧州的なつながりをもったチェチェン民衆の行動が実現しました。私自身何年かぶりでチェチェン以来の再開をした人々があり、同行する二名の青年も第一次チェチェン戦争以来、初めて友人たちと再会するというシーンが数々ありました。すでに若い世代が全欧的なつながりをつくり非暴力行動を準備する芽が生まれつつあります。

ここでウクライナ道場でしばらく居を共にし、ジュネーブに呼んだ一九歳のマホメドは、親類家族に再会合流し、フランス亡命を決意しました。

ちなみに今度ジュネーブに呼んだマホメドと、もうひとりイスラムの二名の青年は、スイスのビザは取れたものの、EUビザは発給拒否され、このストラスブルグの平和行進参加のためのフランス入りはビザなしの不法入国でした。この行動中、来る五月十六、十七日に欧州評議会サミットがワルシャワで開かれることを知り、EUビザを持たぬイスラムを一応ジュネーブからキエフに戻し、セルゲイ師と私は急遽ポーランドに向かいました。ワルシャワにおける欧州評議会サミットに向けた行動を計画準備するためです。

ワルシャワはこれまでの出家人生中、いつも重大な転機となる不思議な因縁があります。かつて欧州が東西陣営に分裂し、冷戦対立がピークに達した一九八三年、戒厳令下のポーランドワルシャワからベルリンの壁に向けて単身行脚しました。ワルシャワに降り立ったこの時点からベルリンのブランデンべルグ門に行き着く日々、見ず知らずの少年からゆきずりの多くの人々まで如来の変化の人となってこの行脚を支えていただきました。この請願行は次のロンドンの宝塔湧現の前序となり、九十年代やがてベルリンの壁崩壊、東欧平和革命、ソ連崩壊への序章となりました。

昨年二月、二十一世紀の今日、最も大きな危機をはらんだ北朝鮮の核問題の危機を転じ、新たな北アジア永久不戦の平和樹立を祈願して、欧州、ユーラシアを横断し、東アジアに向けた長途の立正安国の行脚に出発しました。その始まりに、突然一四年間開教を続けたウクライナの入国禁止、強制送還に直面しました。道中、スロバキア国境の山中、チェチェン難民収容所を訪ね、ワルシャワに向かう夜行列車の中で父の訃報を知り、翌二月二十五日、ワルシャワに到着したアパートの一室にて随身のセルゲイ師とただ二人にて亡父追孝の法要を営み、これからまさに立ち向かう新世紀東アジア立正安国ウクライナ天子魔降魔の法戦、ヨーロッパにおけるチェチェン救国の菩薩行成満を発誓祈願して亡き父の菩提へ回向しました。

同年の暮れ、ウクライナの大地を震烈して無量垣河沙のウクライナの平和の大群衆が従地湧出して空前未曾有の大非暴力革命が起きました。私も強制送還の身でありながらワルシャワから汽車でウクライナ潜行を決行し、ソ連消滅後一四年間の旧ソ連開教上、一大転換を画する非暴力立正安国のご祈念をウクライナの首都キエフにてつとめることができました。

さて今回のワルシャワ入りでは大戦後設立されたヨーロッパの人権と民主主義を守るはずの欧州評議会加盟国の全首脳が一堂に会する際にロシアのチェチェン民族絶滅戦のジェノサイドを容認しつづける事実を告発して諌暁の毒鼓を振い、欧州に逃れてきたチェチェン難民に非暴力抵抗運動の実践の機運を示し欧州世論の沈黙を打破せねばなりません。

一応ワルシャワ行動の下調べと下準備を了え、ウクライナに待期するお弟子やチェチェン青年たちに合流すべくウクライナへ陸路向かう国境において予期せぬ事態に遭遇しました。

それは昨年のウクライナ非暴力革命成功後の新政権下においてもウクライナ秘密情報局(SBU)の私への入国禁止令が厳然として存在することでした。ウクライナ国境の駅での入国検査が無事すみ、汽車の出発直前私の名前がコンピューターリストに発覚し、列車を下ろされ、ポーランドに送り還されたのです。五月四日深夜のことで、急ぎ事態をキエフに待機するお弟子や日本領事へ急報しました。SBUの指令には、西暦三千年までこの指令が有効であること、私のパスポートにあるウクライナビザは即無効とし、パスポートに五年間、ウクライナ入国ビザ拒否のスタンプを押すよう指示されていました。翌日、ジャーナリストの問い合わせに対してSBUのスポークスパーソンは私の入国禁止リストは事実存在し、CIS(独立国家共同体)の協定により二〇〇二年より発行している政府決定であることが明かされました。この知らせはウクライナのみならず国際人権団体や、信教の自由を報ずる国際機関、平和運動ネットワークによってまたたくまに伝えられました。事件はポーランドでも大きな同情を得、ヘルシンキ基金ポーランド仏教徒などが私たちの行動計画に多大な支援をするきっかけとなりました。インタビュー講演が続き、ワルシャワサミット前の一週間に、チェチェン難民とのつながり人権運動との協力、反戦運動団体との共同記者会見ができ、さらに来るサミットの御祈念にウクライナから結集する総勢十一名の居住するための大きなアパートを、仮道場として、仏教徒の老婦人の行為で解放してくださいました。

一方ウクライナキエフでは私が入国拒否直後にしたためた公開陳情書をSBUに提出し、お弟子たちはこの本部前に座り込みの御祈念を始めました。また、先月四日、東京高輪プリンスで開かれた国際宗教学歴史学術会議のために来日したキエフ思想学研究所、宗教学部長教授はSBUの処置を不当だとするアピールを公表くださいました。

五月一五日、サミット中ワルシャワを訪れるウクライナのユーシェンコ大統領あての公開書簡を深夜までかかってみとめました。サミットの初日五月十六日早朝、市中央部を行脚して予定のご祈念の地点に向かいました。ヘルシンキ人権基金がルートを調べ、首脳がサミット会場に向かうときに一番、目に付く地点を選んだのでした。宿泊するビルトリアホテルから車列が旧市へ向かうとき、首脳だけが通る新世界通りへ入る曲がり角の正面にある古い教会前広場がそれで、キエフ・モスクワから馳せ参じた七名の出家、二名の在家が一列に座し、撃鼓唱題御祈念し、二名のチェチェンの若者が「チェチェンを今ジェノサイドから救え」と大書した横断幕を掲げました。十時サミット開始まで、当然ながら厳しい警備の中、次々と会場に向かう前首脳は不思議な一群の平和の鼓の音に迎えられることになりました。

やがてこの御祈念の地にポーランド有数のチェチェン支援リーダーの一人で共産党時代の「連帯」の指導的活動家だったアダム・ボロフスキ氏が訪れました。

氏の案内と説得のおかげでサミット会場の王城古域の真正面の広場に御祈念の場所を移しました。

一時すぎ昼食ブレークになり応急会場入り口から広場に一群の代表が歩いてきました。私たちの御祈念と横断幕の前に来て手をあげて挨拶した人物がこのホスト役のポーランド大統領でした。

広場に一団の代表国の車が待機しました。その運転手の一人はアダム・ボロフスキ氏の友人でなんとウクライナ大統領の車を運転しているといいます。午後にはユーシェンコ大統領がウクライナに帰国するとのことです。

私は今回の御祈念中、ユーシェンコ・ウクライナ大統領への公開書簡とウクライナ非暴力革命成功後発表したウクライナ宝塔建立計画の趣意書をたずさえ、直接大統領に手渡すことができるようこの機会を待っていました。そのただ一回の機会が予想もせずに今与えられようとしています。会場入り口に再接近した広場の一角に待機するうち、さらに一団の代表団が外に現れました。

この一人が入り口前に立って携帯電話で電話中です。まごうことなくユーシェンコ大統領その人です。電話を了え、私たちの太鼓の音をききつけ、このオレンジ色の法衣を見て、手を挙げて挨拶しました。

私たちは太鼓を打つのをやめ、片手に高く大統領あての書類をかかげ、全員が「大統領への手紙を受け取ってください」と一同で叫びました。ほどなく代表団が広場に歩いてきました。この一人が私の前に来て書類を受け取り、直接大統領に手渡しました。この書類の宝塔の姿を見、こちらに会釈し、このあとポーランド大統領のいる一群のところへと歩いていきました。

宮城広場の青空の下で、この二者首脳会談が行われたのでした。約二十分間の二国サミットに引き続き御祈念の音が広場に響き渡りました。二国代表団の車が次々広場を出発する頃になって特別武装の対テロ警備の部隊が私たちの前に立ちましたが、すでに千載一遇の大佛事が、次々と現れた如来の変化の人々の導きによって実現した後のことでした。夢のような予期せぬ劇的展開に一同ただ呆然となりました。

午後四時から市中央駅近く、スターリン時代に建てられた文化宮殿前に反戦集会があり、市中をデモ行進し、サミット会場王宮広場の近くでチェチェン戦争反対の集会が計画されました。ぎりぎりまで警察許可が下りなかったのですが、私たちの記者会見の後、許可が下りました。市側も、オーガナイザー側も市中騒乱になることを懸念したのですが、オーガナイザーの要請で最前列に日本山の横一列の撃鼓唱題とチェチェンの横断幕が数千人のデモを先導しました。最後チェチェン反戦集会には多くのチェチェン難民が参加しました。重々しい機動部隊と対峙する中、私の呼びかけでチェチェンジェノサイドに思いをいたし、全員王宮前の通りに横たわりダイ・インをして集会のしめくくりとなりました。

このポーランドワルシャワの一日はある意味でウクライナ強制送還があったゆえに実現することのできた、たくぐまれなる法利の一日でした。まさに日本の仏法の独壇場の一日でした。しかもこのほうを宣説し、外護し、随喜したのはウクライナ・ロシア・チェチェンポーランドイラク・トルコ・ベルルーシの人々でした。この一日はこれからの欧州の精神的霊性的な平和運動の開幕となりましょう。これを可能とするべき因縁がポーランドの歴史文化、精神性に由来することが多大でありました。ポーランドなるがゆえにこの一日が実現できたのであります。

十六日の夕方、私たちの宿泊地とした仏教センターでの晩課を仏教老婦人その他の人々とつとめ、これまでの外護を謝しました。十七日早朝チェチェンの青年を残し大半が帰路の途につきました。十七日夕刻老婦人が宿地に訪れて語るには、今度初めて本当の仏法の実践をまのあたりにし、真の仏師、仏弟子の姿を拝みました。これからもポーランドに留まり多くのお弟子と共に修行できるよう昨日お祈りいたしました。今日、友人の好意で新しい道場が見つかり、明日からお移りくださいとの事で翌日新しく移り住むことになりました。

これは閑静な市中の一画の緑に包まれた一戸建ての格好の道場です。即一日かけて移転を完了し道場をささやかながら荘厳し来る二十三日の梅朔の満月祭をこの新道場で務めることになりました。ポーランドをすでに越えて帰途にあった人々の二名を急ぎポーランドに呼び返しました。

一九日、キエフに帰り着いたお弟子たちは翌二十日早朝再びSBU本部前に御祈念に入ったところ、本部建物から出てきた役人が寺沢潤世師の特別指令を撤回したという決定を伝え、この場は即この知らせを伝える会見の場と変わりました。

ポーランド新道場の湧現とウクライナの最後の降魔の法戦勝利の知らせとが倶時に現れました。ユーシェンコ大統領への直訴からわずか四日目の急展開の重大決定の知らせに、一同耳を疑いました。

ポーランドワルシャワで欧州の全首脳が集まる中、現代文明がチェチェンに現出せしめた地獄界の十如是を転変して久遠の佛界の十如是たらんとして結要付属の妙法の鼓を撃ちました。この一日に予期せずして伝えられたユーシェンコ大統領への直接の宝塔建立の祈願は一時に一千年入国禁止の魔降を撤回せしめ、確実に宝塔湧現の道を開きました。

この奇跡の法利は正にロンドン宝塔湧現二十周年と時を同じくして現れました。このロンドンの宝塔湧現は冷戦下の欧州対立を乗り越えんとして一人ワルシャワから始めた平和行脚に端を発しました。さらにこのロンドンの宝塔湧現は欧州統一の非暴力革命をなしとげソ連消滅後今日までのユーラシア解放の道を開き、ついにウクライナ大非暴力革命の勝利を導き、今正にウクライナ宝塔湧現への道を開こうとしています。

昨年、父の生死一大事血脈相承の瞬間を、このワルシャワにおいて迎え、この時亡き父の菩提に回向せんとして発した諸願は正に今日この地において満足せんとしております。

なんという妙法蓮華当体の因果の自在神刀の実相でありましょう。

末法本時の穢土一日の如説修行の切徳はここに歴然としています。二度となきこの一日をこの土地で迎えたのはひとえに恩師大聖人さま、慈文のお導きでありましょう。法華経の守護の一切諸佛菩薩諸天神天の法界の如力であります。

新しく拝領したワルシャワの新道場おいては、この報謝の法会をつとめました。この夜天にこうこうと満月が輝きわたりました。

次の法戦にむけ数日後には中国朝鮮半島に出発いたします。昨年、ワルシャワにおいて発誓した東アジア立正安国の本舞台であります。日本国の迷妄がここで転ぜられねば、ふたたび抜き差しならぬ二十一世紀最大の歴史的あやまちがくりかえすことになりましょう。
何ゆえの法華経当方三国流伝であったのでしょう。

今日の東アジア対立の大悪を転ずるための法華経帰一の平和の一乗の意味があります。

来る六月十三日、韓国で開催される中韓日仏教会議に出席するつもりです。途上、時間があれば西安、草堂寺の羅什三蔵の霊跡を訪ねます。来る明年明後年がおそらくは、妙法蓮華経訳出の千六百年に征当するでしょう。東アジア三国がここに平和の一乗を開顕して新しい平和文明の根幹となさんがために宝塔建立の佛事が起こるべきときであります。これはひいては北朝鮮金剛山の東アジア全仏教による宝塔湧現の礎となりましょう。

 韓国の後、一時日本に帰ることになるやも知れません。この報告をすみやかに熱海、身延、**上人、石井上人、日本橋などにお伝えください。大富氏にも一報ください。

 所やなぎ様 (花川法尼、大富氏)

寺沢潤世 合掌