閉ざされた声=チェチェン(5)タイーサ(上)

2005年5月13日付け信濃毎日新聞を一部改稿

終わらぬ戦争―娘の未来は

 第二次チェチェン戦争が始まって間もない一九九九年十一月、チェチェンの首都グローズヌイは周囲の半分近くをロシア軍に包囲され、多くの住民が脱出していた。瓦礫の街には灯りも暖房もなく、水も食糧も尽きかけ、残された市民は、その日を生き延びることに必死だった。

 冷たい霧が瓦礫に染み入るような夜。独立政府系の通信社『チェチェンプレス』のディレクター、タイーサ・イサーエヴァ=当時(26)=に出会った。激しい攻撃で停電し、ガスも水道もない編集局に入ると、ランプの灯りの下で何人かが働いていた。緊迫した状況下で、イスラム女性特有のスカーフも身につけずに陣頭指揮をとっていたのがタイーサだった。
 当時、『チェチェンプレス』はインターネットで情報を発信していた。だが、インフラが徹底的に破壊され、電話も通じないチェチェンで、通信社を存続させるのは極めて困難な状況だった。その後間もなく、彼女は隣国グルジアへ脱出。そこで『チェチェンプレス』を復活させた。

 昨年秋、私は彼女と連絡をとろうとしたが、消息不明で、生死もわからなかった。あきらめかけたころ、彼女がチェチェンに戻っていることがようやくわかった。

チェチェンプレスからの独立

 十一月、五年ぶりに再会した彼女は、結婚して子どもが生まれていた。独立派の活動家だった夫は占領当局に追われてチェチェンを脱出。彼女は四歳の娘と暮らしているが、平日は姉に預けて働き、終日一緒に過ごせるのは日曜日だけだ。「日曜の午後になると、娘は泣き始める」とタイーサは言った。

 「戦争がいつ終わるかわからないのに、子どもを生んでよかったのかと思うこともある。だって、チェチェン人である以上、この子に未来があるかどうかもわからないのだから…」

 九四年に始まったチェチェン戦争は十年以上にわたって続き、二十万人以上の住民が犠牲になった。ジャーナリストや活動家はいつ治安警察や軍に拘束されるかわからず、常に生命の危険にさらされていると言って過言でない。

 グルジアから戻ったタイーサは、『チェチェンプレス』から独立して『SNO』という情報センターを設立し、チェチェンで起きる出来事を日々インターネットで発信している。

 場合によっては、危険を冒してひそかにロシア占領軍関係者と接触。虐殺や拷問などの人権侵害の証拠として、ロシア軍が撮影したビデオを高額で買うこともある。国際人権団体やロシアの団体は、チェチェンの状況を知ろうとする際、SNOを情報源とすることが多い。いつどこで何があったのか、より具体的な情報が得られるからだ。

治安当局の追及

 チェチェンのジャーナリストとして、私はこの連載の最初にタマーラという女性を紹介した。彼女は、独立派政府とともに行動する抵抗運動家でもある。

 それに対し、タイーサは、独立派政府を含めあらゆる政治勢力から独立したジャーナリズムを確立したいと考えている。二〇〇二年には、独立派政府のマスハドフ大統領(〇五年三月、ロシア治安当局により殺害)から、情報大臣への就任を打診されたが断った。

 困難や危機を何度となく乗り越え、ジャーナリストとして活動してきたタイーサ。だが、私がチェチェンに滞在していた今年一月十二日、彼女に、新たな危機が訪れようとしていた。

 その日、ロシア連邦保安局(FSB)の特殊部隊は、数日前に移転したばかりのSNO事務所の近辺を封鎖、一軒一軒に踏み込んで家宅捜索を始めたのだ。黒い覆面に防弾チョッキ、自動小銃を構えた特殊部隊員たちが、一歩ずつ、タイーサの事務所に近づいていた。
(以下次号)