閉ざされた声=チェチェン(8)ミカイル
信濃毎日新聞2005年6月3日掲載原稿を一部訂正
遺された表札
辺り一帯は、ロシア軍による爆撃と砲撃で変わり果てていた。しかし、半壊した家の門には、確かに「五一番地」と記されている。
グローズヌイ西部の住宅地。昨年暮れ、チェチェンに入って間もなく訪れたその家は、間違いなくミカイル・エリジーエフ(37)の家だった。
詩人でジャーナリストの彼は、私が初めてチェチェンに入った一九九五年以来の知人である。廃墟と化したこの家は、私が寝泊まりする取材拠点でもあった。
彼が生存しているという情報は、チェチェンに入る約四〇日前に得ていた。行方がわからないのは気がかりだったが、数日後、私がチェチェンに入ったことを知ったミカイルが、取材先に私を訪ねてきてくれた。第二次チェチェン戦争が始まり、グローズヌイがロシア軍に包囲されていた一九九九年十一月、取材の合間に立ち話をして別れて以来、五年ぶりの再会だった。
小説の主人公みたいな男
チェチェンの活動家やジャーナリストが例外なくそうであるように、彼もまた、何度も死線を越えてきた。最初の危機は九五年六月。ロシア軍に捕まって基地に連行され、その後、強制収容所に送られて二十八日間拘留された。
だが彼は、拷問に耐え、決して独立派の動向を洩(も)らさなかった。逆に「ゲリラはここにいる。あそこに武器がある」といった偽の情報を流し、「あんたたちの協力者になってもいい」と言って相手を惑わそうとした。窮地を乗り切るそのしたたかさと生命力は、いかにもチェチェン人らしい。
知り合って以来、彼はいつも私の取材を助けてくれた。しかも、寝る場所や食事の用意から、取材対象の人物との連絡、移動ルートの選定、安全確保まで、あらゆる協力を惜しまなかった。
友人、客人として一度受け入れたら、徹底的に誠意を尽くす。その姿勢はまさに、ウェズデンゲル(チェチェンに言い伝えられる行動規範)に拠る。トルストイの小説に、友人のためには犯罪さえいとわないチェチェンの青年が出てくるが、ミカイルも、そんな典型的なチェチェン人の一人だ。彼に会うと、チェチェンに来た実感が湧く。
「不幸な出来事は、すべて試練だ」
再会までの五年間に、ミカイルは、さらにいくつもの困難を乗り越えていた。
二〇〇〇年一月末、チェチェン独立派部隊に従軍取材していた彼は、約百人の部隊とともにグローズヌイから撤退した。「腰まで積もった雪の中を何日も歩いて山岳部に逃げた。ロシア軍の砲撃と飢えと寒さで十人が死んだ」。彼自身も雪の中で凍死しかけたという。
その後、隣国のイングーシに逃れ、家族と再会。二〇〇二年に何とかチェチェンに戻り、文芸誌にペンネームで原稿を書いてきた。
ロシア占領軍に武装して抵抗する独立派の人々を公然と称える彼は、占領当局の手を逃れるため、二カ月ごとに住む場所を変えていた。「占領された町に住んでいると息が詰まる。弾圧の一方でロシアへの同化が進み、チェチェンがチェチェンでなくなろうとしている」と彼は話した。
再会からしばらくたった一月十日、壊された彼の家に二人で行ってみた。庭には懐かしい大きな木が残っていた。「私自身に、あるいは私の周囲に起きる不幸な出来事は、すべて試練だ。そういうことが何もない人生は、むしろ空しい」。その木の下で、ミカイルは言った。
終わらない戦争と占領。チェチェンの現実の中で、彼はそう考えることで自分を支えているのだ。
日本に戻って四カ月余が過ぎた五月三十日。ミカイルから突然メールが届いた。「国連関係者を頼ってノルウェーに逃れた」という。何があったのか、詳しい事情はまだわからないが、彼はまた新たな試練に立ち向かおうとしているに違いない。