閉ざされた声=チェチェン(9) アレクサンドル

信濃毎日新聞2005年6月10日掲載の原稿を一部訂正

チェチェンのロシア人

 空襲と市街戦で破壊された住宅が連なるグローズヌイ東部の市街地。「十月区」と呼ばれるこの地区に住むアレクサンドル・ヴラドフスキー(51)と彼の家族は、八畳ほどの広さの物置で寝起きしている。隣にあった自宅は爆撃で壊れ、原形をとどめていない。
 アレクサンドルは、チェチェンで生まれ育ったロシア人である。一九九四年に第一次チェチェン戦争が始まるまでは、路面電車の運転手として働き、妻と二人の息子と平凡に暮らしていた。
 だが、戦災で路面電車の施設は壊滅。仕事を失ったアレクサンドルに代わり、妻のリューバ(49)がピロシキをつくって路上で売り、生計を立てている。
 チェチェンには、帝政ロシアソ連時代を通じて多くのロシア人が入植、移住した。ソ連末期には、グローズヌイの人口の半分をロシア人が占めたという。
 チェチェンロシア連邦からの独立を宣言した九一年以降、ロシア人の脱出が始まり、戦争がそれに拍車をかけた。だがそれでも、アレクサンドルのように、この土地で生まれ育ったロシア人の中には、十年以上続く戦争に耐えて故郷にとどまっている人が少なくない。

ロシア軍がロシア人を虐殺

 戦争初期、チェチェンに残ったロシア人の大半は「ロシアが攻めてきても我々は大丈夫だろう」と考えていた。しかし、侵攻したロシア軍は、チェチェン人、ロシア人の別などなく、大規模な攻撃を仕掛け、住民を虐殺した。
 国際赤十字の報告書によると、九五年四月、チェチェン西部のサマーシキ村で、非武装の村民約三百人がロシア軍特殊部隊に殺害された。その報告書には、つぎのようなロシア人男性の証言がある。
 「私を含め四人のロシア人が家の中に隠れていた。兵士が来たので、パスポートを見せ、『撃たないでくれ、同じロシア人じゃないか』と言った。だが彼らは、私たちを壁に向けて立たせると、構わずに銃を撃った」。(筆者注=固有名詞など一部省略)。
生き残ったのは、この男性だけだった。

突然の逮捕

 戦火を生き延びてきたアレクサンドル一家に、思いもしない災いが降りかかったのは二〇〇三年五月七日のことだ。この日、突然自宅を訪れた四人の男に、長男のミハイル=当時(20)=が連れ出され、それきり戻らなかった。ロシアの傀儡(かいらい)政権に拘束されたと分かったのは一週間後だった。
 容疑は当初、無許可の銃器所持とされたが、その後、二〇〇二年九月に起きたロシア軍車両爆破事件の容疑者に仕立て上げられた。リューバは「その事件のとき、息子は職場にいた」と言う。ミハイルは自動車関係の工場に勤めていた。彼にはその後も次々と容疑が加わり、合計8つの罪を問われている。
 アレクサンドル夫妻が弁護士を通じてひそかに受け取った息子の手紙がある。そこには、拷問を受けているが、でっち上げの容疑を認める供述はしていないことなどが書かれていた。
 ミハイルが拷問を受けていることは、まったく別の事件の法廷証言でも明らかになった。両足の骨を折られて病院へ担ぎ込まれたミハイルは、病院から戻るとまた内務省の取調室に連れて行かれたという。

信じていいものといけないもの

 逮捕から二年余、アレクサンドル夫妻は息子の釈放運動に心血を注いできた。その二人を多くのチェチェン人が助けている。同じ土地に生き、戦争の被害を受けた者同士としての共感が、民族を超えて人々をつないでいるのだろう。隣のロシア人に家の鍵を預けて留守を頼むチェチェン人もいれば、チェチェン人の壊れた家の修復を手伝うロシア人もいる。
 この戦争は、ロシア政府が主張するような「イスラム過激派のテロを封じるため」のものではない。宗教や民族の対立によって引き起こされているのでもない。ロシアの政権維持、体制維持のための、見境のない弾圧なのだ。

 武力行使や占領を正当化する国家、およびそれを支援する国家の言い分を信じてはならない。その暴力はいずれ、信じた“あなた自身”を踏みつぶそうとするだろう。

(「閉ざされた声〜チェチェン 人々の闘い」おわり)