「チェチェン共和国:はびこる拷問」(3)

ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告書(2006.11)より、チェチェンで後を断たない失踪についてまとめます。ロシアの人権団体メモリアルは、2005年に316件の「誘拐」事件を記録していますが、そのうち150名が後に遺体で発見されました。報告書は、「チェチェンでの強制失踪は、その規模と組織性からして、人道に対する罪に値する」と結論づけています。

被害者の一人で、当局によって連行された後に行方不明となったメルカーエフの事件は、奇妙なものでした。なぜか検察庁が当初から彼の死を既定の事実として捜査を進めているからです。
「家族が手を尽くしたにもかかわらず、メルカーエフが殺害されたという証拠を検察庁が持っているのかどうか、また持っているとすればそれはなぜか、ということも含めて、彼らがそれ以上詳しい情報を知らされることはなかった」


原文:
http://hrw.org/backgrounder/eca/chechnya1106/chechnya1106web.pdf

Blaudi Melkaev の強制失踪

 2005年12月16日の深夜、戦闘服を着て武装した8〜9人のチェチェン人が、3台の車に乗って、メルカーエフの住むヴァレリックにやって来た。男たち—そのうち2人は覆面をかぶっていたのだが—は、メルカーエフの家に止まり、彼を取り押さえ、裸足のままの彼を連れ去った。同日夜、武装した男たちは、同じ村の住人であるイリアス・ムルタザリエフを誘拐した。
 男たちは自分たちの正体を明らかにせず、また家族に対してメルカーエフをどこに連れて行くのかということを告げることもなかったが、彼の家族は、メルカーエフを連れ去った男たちが近くの検問所で自らATCの兵士であることを示す証明書を提示していたことを突き止めた。
 2005年12月17日、被害者2名の家族は、グデルメスにあるATCの本部を訪れ、メルカーエフとムルタザリエフのことを知っている2人の将校に問い合わせを行った。将校は2人が基地で「容疑者」として拘束されていることを認め、彼らが差し入れた上着を受け取り、家族たちに対してATCの司令官であるムスリム・イリアソフと交渉するように言った。
 メルカーエフの家族の一人は、運よくイリアソフと面会することができた。イリアソフは何の情報ももたらすことはなかったが、翌日に二人を解放すると約束した。事実、12月18日、ATCの兵士はイリアス・ムルタザリエフを車に乗せて自宅までやって来た。ところが、メルカーエフは翌日には戻ってこなかった。ムルタザリエフの父親がメルカーエフの家族に語ったところによると、ムルタザリエフは拘留中に殴打され、戻ってきたときには心身ともにボロボロの状態で、一ヶ月もの間自分が拘束されていたと思い込んでいたという。
 メルカーエフの家族が再びATCの関係者に彼の状況を尋ねたところ、彼はハンカラの軍事基地に移されたということだった。ところが、ハンカラの兵士はメルカーエフが移されてきたという話を否定した。メルカーエフの家族は、次のようにヒューマン・ライツ・ウォッチに語っている。「[ATCの兵士]の言うことなど一言も信じられませんでした。単にハンカラなら私たちが行って探すこともできないと考えたのでしょう。ですが、私たちはハンカラまで行きました。そして、そこで問い合わせを行い、彼が基地にいないことを確認したのです」
 メルカーエフの家族は、再度ATCの司令官であるイリアソフに訴えたが、イリアソフは彼らを追い払った。そこで、家族はラムザン・カディロフに歎願状を送ったが、これにも何の音沙汰もなかった。彼らは誘拐事件を刑事事件として調査するよう検察庁に訴えた。
 2006年4月、チェチェン検察庁は、2006年2月23日にメルカーエフの件が刑事事件として調査を開始された旨を家族に対して書面で通知した。だが、文書によると、メルカーエフの事件は誘拐ではなく殺害事件として調査が開始されたという。
 家族が手を尽くしたにもかかわらず、メルカーエフが殺害されたという証拠を検察庁が持っているのかどうか、また持っているとすればそれはなぜか、ということも含めて、彼らがそれ以上詳しい情報を知らされることはなかった。2006年9月下旬現在、家族はメルカーエフの状況や行方に対して、何ら新たな情報を与えられていない。