イングーシの年

2007年9月14日 RUSSIA PROFILE.ORG

セルゲイ・マルケドノフ
原文: http://www.russiaprofile.org/page.php?pageid=International&articleid=a1189773978


 イングーシ共和国の状況は悪化しているが、その理由は依然不明である。

 ロシアの北コーカサスの歴史の中で、2007年はイングーシの年として知られるようになるかもしれない。2005年、ロシアは、ダゲスタンでのやや宣伝性を帯びたチェチェン人テロリストとの戦闘に勝利した。2006年はチェチェンの年だったとも言えるだろう。2006年を通じて、「権力のチェチェン化」という非公式な政策が、ラムザン・カディーロフのもとで制度的化された。2007年のアル・アルハノフの辞任は、この手続きを完了させ、移行期間の始まりを象徴するものだった。そして、次はイングーシの番というわけだ。

 イングーシの時事をめぐるメディアの報道は、イングーシの状況を伝える多くの解説と同様、1999年当時のチェチェンにおける「対テロ作戦」の戦時報道を彷彿とさせる。そのレトリックはほとんど変わっていない。「全面的軍事作戦、ギャング集団の山岳部への撤退、第三次コーカサス戦争」については、ロシア・イスラム委員会の代表で、著名な政治家であり作家であるゲイダー・ジェマルが、RBCニュースで繰り返しご高説を披露してくれた。けれども、ジェマル以外にも、ロシアのメディアには騒々しい連中が溢れかえっている。いくつか見出しを挙げてみるだけでも、このことは明らかだ。「爆発のオンパレード」、「一触即発」、「イングーシは第二のチェチェンになるか?」。コーカサスの状況を伝える記事や報道にありがちなように、現在の政治情勢に関する洞察に欠け、感情が先行している。暴動を起こす側のイデオロギーは何なのか?ナショナリズムなのか?それとも過激なイスラム教なのか?彼らの指導者は誰なのか?破壊行動や破壊工作、テロ行為の背景にはどのような動機があるのか?一体どのような根拠にもとづいて、イングーシを「第二のチェチェン」と断言できるのか?

 ロシア全土において、イングーシは今日政治的に最も不穏な場所であるが、この「不穏さ」には長い歴史がある。オセチア・イングーシ紛争は、ロシアにおける一連の民族紛争の発端となった。今年はその15周年にあたる。イングーシの多くの問題は、「1992年の黒い10月」に端を発するものかもしれない。つまり、問題の多くはチェチェンと無関係かもしれないのである。

 実際、今日のイングーシには、チェチェン人にとってのかつての国民議会にあたるような「代替権力」は存在しない。さらに、独立運動イデオロギーも、チェチェンの対抗勢力が1991年に得たような民衆の支持を得ていない。1992年のオセチア・イングーシ紛争のときでさえ、イングーシのナショナリストたちはロシアからの独立を主張しなかった。確かに、ルスラン・アウーシェフ前イングーシ大統領は、チェチェンの指導者と友好関係にあったが、彼でさえ「独立を視野に入れた自治政府」を作ろうとはしなかった。「イチケリア」の解放を目指して戦っている人々の中にはイングーシ人もいたが、彼ら自身はロシアから独立しようとはしなかった。実際、1991年には、「ロシア人はリャザンに、イングーシ人はナズランに戻れ」というスローガンがグローズヌイで連呼された。強力な独立派指導者やイデオロギーがない以上、イングーシが第二のチェチェンになると主張することには無理があるように見える。イングーシ共和国のナショナリストの主な関心は、北オセチアと係争中のプリゴロドゥニ地区にあり、多くのイングーシ市民は、もしもロシア当局がそうした地元の問題の解決に取り組めば、単純に歓迎するだろう。

 ダゲスタンとは異なり、イングーシで破壊攻撃や、誘拐、テロ行為が起こった後に、明確なイデオロギーにもとづく声明が出されることは珍しい。イングーシには、ダゲスタンのように教義に精通したイスラム過激派のカリスマ的な説教師はいない。地元の過激派はより実践に傾斜している。一方、イングーシの情勢に関するモスクワ政府の理解はかなり表面的なものにすぎない。数日前、ロシア連邦南部に向かった大統領使節のドミトリー・コザックは、コーカサスの現状に対して楽観的な見解を表明した。彼は、(ベスランの悲劇が起こった)2004年9月以降、世界全体ではテロ行為が50%増加しているのに対し、ロシア南部のテロ行為は40%減少したと評価した。ただし、ロシア連邦南部の統計を誰が取りまとめたのかということも、テロの数をどのように算定したのかということも、まったくもって不明である。そもそも、ロシアの13%―58万9200平方キロメートル―の一地区を、それよりもはるかに巨大な地域と潜在的な紛争をかかえる世界のその他と比較するのは不公平ではないだろうか?そして、テロ行為を40%減少させるためにどのような手段が用いられたというのだろう? 2005年から2006年にかけて、ダゲスタンではテロ行為が急増した。イングーシの現在の情勢を評価するのに、どのような基準をもってするべきだろう?リュドミラ・テレヒナとヴェラ・ドラガンチュク一家の死の位置づけは、「安定化」なのか?それとも「権力階層の強化」なのか?それとも彼らの死は統計誤差と見なすべきなのだろうか?実際、イングーシ共和国では、軍隊を増強しようが、対テロ作戦を行おうが、たいした成果は上がっていない。現実を直視してみよう。そうした手段が問題の根幹を変えることはない。当局が「科学的楽観主義」にもとづく方法を取り続けるなら、状況が好転することはありそうもない。1994年、当局はチェチェンの「憲法秩序」を回復しようとしていた。1999年、当局は「対テロリスト作戦」を行っていた。当局は、事件を適切に説明することはなかったが、少なくとも説明だけはした。ところが、モスクワ政府は、今日イングーシで何が起こっているかを明確に理解していないように見える。イングーシで起こっている出来事を定義できずにいるのである。もっとも、当局は、テロ行為が減少しているという怪しげな統計結果を使って、市民に偽りの安心感を与えようとしているのだが。

 一方、イングーシにおける現在の政治的「不穏さ」は、真剣に分析する必要がある。連邦当局と地元当局は、(1990年代初期のチェチェンでそうだったように)イングーシの独立派から挑戦を受けているわけでもないし、(今日のダゲスタンがそうであるように)宗教的過激派から挑まれているわけでもない。もちろん、ナショナリストや宗教的過激派を始め、あらゆるグループの「地下茎」は存在する。けれども、彼らの支持基盤が強まっているのは、別の理由による。不満の根は、ソビエト時代にまで遡るものかもしれない。1990年代初期、人々は、民族集団への抑圧の改善策に大きな期待をかけた。ところが、政府の行為によって、彼らの期待は幻想だったことがすぐに明らかになった。貧困と、政府の無為無策、法の恐慌が、彼らの不満に拍車をかけた。民衆からの反応がないために、イングーシ当局はいっそう人々から孤立した。人々は、何であれ有効な手段を使って、最善を尽くして問題を解決しようと試みた。そうしたこともあり、反対派は、反政府活動を行う際のイデオロギー上の根拠をめったに打ち出そうとしない。当局と戦うことを決意した者の中でも、純粋なイデオロギー上の「敵」より、単純な不平分子の方が、はるかに数が多いのである。オセチア・イングーシ紛争が「停戦」してから15年。モスクワは、両国で紛争後の新しい指導者を育てようとはしてこなかった。局地的な「アパルトヘイト」も緩和されなかった。未解決の問題は幾何学級に膨れ上がり、将来爆発することは避けられなかった。

 1991年以降、イングーシでは二つの行政モデルが適用された。最初の行政モデルは、モスクワからほぼ完全な自主性を保ち、相対的な秩序をもたらした。イングーシは(ロシアの域外として)特別な経済状況を享受し、(非公式にチェチェンを支援しながら)独立した政治課題を持った。二つ目のモデルは、イングーシ当局と地元特権階級のクレムリンへのうわべの忠誠を保証させるものだったが、それは混乱と国民の不満を高めることになった。結局は、どちらのモデルも不成功に終わった。イングーシには数え切れないほどの問題があり、近い将来に平和と安定が訪れる見込みもない。イングーシのモスクワへの忠誠を損ねることなく、相対的な秩序が確立できれば理想的ではある。そのためには、モスクワ政府は、「法の独裁」と第一義的な国益にもとづく効率的な行政機関を創出し、象徴的な忠誠と「適切」な選挙の結果へのこだわりを捨てなければならない。また、モスクワ政府は、正義と公正の基準によってのみ地方行政の効率を測るのではなく、地域差を考慮に入れるべきである。イングーシが完全にはロシアと同化しない―ある程度の自主性を維持する―とすれば、政治的「不穏さ」はいつでも起こりうるのだから。