「メモリアル」人権センターによる2009年春の報告書『北コーカサス紛争地の情勢:人権状況からの分析』

チェチェンは平和になった」というのが、現在のロシア政府と、現地の傀儡政権が口を合わせて言うところですが、昨年4月に「対テロ作戦体制」が解除された時点で、まったくそうでなかったことが明らかになっています。この点についての報告書がありましたので、ひとまず戦闘状況について送ります。

Bulletin of the Memorial Human Rights Center
Situation in the North Caucasus conflict zone: analysis from the human rights perspective
Spring 2009

(国連人道援助調整局のインターネットサイトに掲載されていたもの。メモリアルによる報告は、欧州人権裁判所でも証拠として採用されている)

 以下に、チェチェン現地での戦闘の状況について抜書する。(昨年の春季の報告だが、その後、状況は同様に推移している):

 2009年4月16日、ロシア政府対テロリズム委員会のボルトニコフ委員長(連邦保安庁FSB長官)は、チェチェンに1999年以来敷かれていた「対テロ作戦体制」の解除を宣言した。これによって、10年に及ぶ非公式の戦争に、公式の区切りがなされたことになる。しかし、現地での報道や、メモリアル職員の報告を総合すると、状況は作戦体制解除とは関係なく悪化していることが明らかである。

 作戦体制解除と同時期の軍事衝突には、次のようなものがある:

 3月29日、アフキンチュ・バルゾイで、ロシア内務省軍と、武装勢力15名ほどの間で戦闘があり、内務省軍側には死者がなく、武装勢力2人が死亡した。

 3月末、ほぼ同時期に、チェチェン南部のヴェデノ地区、ネフトヤンカ村に30人から35人の武装勢力が進入し、警察署長を殺害し、現地の役所に彼らの旗を掲げた。同時に、数人の若者が武装勢力とともに姿を消した。それには警察署長の甥も含まれていた。

 4月16日、件の対テロ作戦体制の解除の当日にも、チェチェン最南部のシャトイ地区ダイ村で、治安部隊と10人ほどの武装勢力との間で戦闘が起こった。この戦闘の前日、ヴェデノ地区、シャトイ地区、クルチャロイ地区で、多数の武器弾薬、爆薬類が発見される事件があった。

 4月14日に、ロシア連邦保安庁の特殊部隊「ヴィンペル」の将校が、チェチェンで地雷の爆発によって死亡し、葬式が対テロ作戦体制解除当日の16日にモスクワで開かれたとの報道があった。

 4月中に、チェチェン領内で少なくとも6回の武装衝突が報道されている。これら報道や、メモリアルのスタッフの得た情報によれば、砲撃、銃撃戦、爆破事件により、10人以上の死亡者、7人の負傷者が出た。

 5月2日、ヴェデノ地区のヴェノイ村がロシア軍の砲撃を受けた。この地域が砲撃を受けるのはかなり稀。民間人1人が死亡、家屋1軒が破壊された。行政当局は、「砲兵隊のミスにすぎない」と発表した上、ジャーナリストらが破壊の跡を撮影することを禁止し、「メディアは良いニュースを中心に流すべきだ」と述べた。

 5月15日、チェチェンの首都グローズヌイでは、自爆攻撃が起こった。攻撃者は市内中心部にある内務省本部の前で爆弾を爆発させ、4人の人々が死亡、5人が負傷した。特記すべき点は、攻撃者がよくある若年層ではなく、40歳の大学教育経験者で、ヨーロッパでチャンピオンになったこともあるレスリング選手のベスラン・チャギーエフという人物だったことである。(命を捨てて当局に復讐をしようとする人々が、若者だけでなく、分別を積んだ大人にまで及んでいるところに、状況の悪化が見て取れる)

 各種の報道を集約すると、2009年春季だけでも、当局・治安部隊側に16人の死亡者、39人の負傷者が出ている。なお、2008年の同時期には20名の死亡者、21名の負傷者となっており、チェチェンでの戦闘は、対テロ作戦終了後も変化がないことがわかる。

 4月21日、各地で戦闘が起こる中で、チェチェン内務相ムスリム・イサーエフは、「2009年1月から3月にかけ、イスラム原理主義に関連する犯罪やテロは1件も起きていない」と、報道陣に答えた。同じ日に、ロシア政府がチェチェンに置いた対テロ作戦部のスポークスマンは、同じ期間に「16件の武力攻撃、3件の砲撃、11件の爆破事件があった。治安部隊と警察に8人の死亡者、20人の負傷者が出た」と発表したが、これも被害を過小評価している可能性が高い。