「長い旅」 アンゾール・マスハードフ

マスハードフ元大統領の息子)

3月8日

 私の家族は、本来の母国から遠いところで始まり、土地から土地へと移動するのは運命のようなものだった。おそらく、母国を愛する人にとっては耐えがたいほどに。

 私の祖父と祖母は、チェチェンで生まれた。1944年に、彼らはほかのチェチェン人とともに、カザフスタンに送られた。すべてのチェチェン人が、家を追い出され、強制移住されたからだ。それは厳しい寒さの2月に起こり、人々がチェチェンへの帰還を認められた時には、人口の半分が死んでいた。あの強制移住を経験した女たちは、今でもたくさんの涙を流さずに、その記憶を語ることができない。老いた男たちもそうだーーその姿は見るだに辛い。

 私の母と父(アスランマスハードフ元大統領)は、そのカザフスタンで生まれた。そして1957年になって、チェチェン人たちは故郷に戻ることを許された。ここで両親は出会った。父は学校を卒業して、1969年にグルジアに行き、トビリシにあるソ連軍の高等砲兵学校に入学し、首席で卒業した。父と母が結婚したのも、この時だった。そして軍務のために沿海州に行き、中国との国境にあるハンカ湖(ウラジオストックの北約250キロにある)のほとりの村に住んだ。

 村のまわりは、すばらしく美しい山々に囲まれていた。1975年11月18日に、私はそこで生まれた。まだ幼かったが、覚えていることも少しはある。私たちが住んでいたのは小さな木造の家で、私はそのまわりを走り回っていた。隣人たちにも年の近い息子がおり、一緒によく遊んだ。父はハンカ湖に私を連れて行き、水浴びをした。そうして、私と人生、私と「世界」の出会いが始まったのだった。

 1978年、私たち一家はレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)へと旅立ち、父はカリーニン砲兵大学で学び始めた。私はたった5歳だったけれども、レニングラードにも、いい思い出がたくさんある。父と母は、よく私をサーカスに連れて行ってくれた。動物園にも、博物館にも。ときどきは、ネヴァ川の船遊びにも。修道院や、ペトロパブロフスク要塞の形を、今でも覚えている。

 旅はまだ続く。1981年に父が大学で学び終えると、ハンガリーに移ることになった。私たちみんなにとって、未知の国だ。私はそこで小学校に通い始め、妹のファティマも生まれた。彼女は今、スウェーデンに住んでいる。

 父は、チェチェン人のもてなしの心を教えてくれた。知人や客が家を訪れたら、息子の私もまた挨拶のために出て行き、客人の健康はどうか、ここまでの旅はどんなだったか、ここではどんなことを目的としているかを尋ねるのが礼儀だった。そうさせてから、父は私を部屋に戻すのだった。「客人は家の喜び」、「来客はお恵み」これが多くのチェチェン人の共通の思いだから。

(つづく)

原文:
http://www.waynakh.com/eng/2011/03/the-big-trip-by-anzor-maskhadov/