チェチェン人殺害によって傷つくトルコのイメージ


(殺害されそうになったバツカーエフ氏)

 米国の保守派シンクタンクに掲載された論考。要するにトルコはチェチェン難民をちゃんと暗殺攻撃から守れよということを言わんとしているみたいです。

Eurasia Daily Monitor Volume: 8 Issue: 193,October 20, 2011 By: Mairbek
Vatchagaev

 トルコのメディアは、9月16日にイスタンブールで殺害されたチェチェン人のベルグ・ハジ・ムサーエフは、チェチェンコーカサスの反政府武装勢力指導者ドック・ウマーロフの側近だと報じた。これによるとムサーエフは、チェチェンで負傷し、医療を受けるためにトルコに来ていた。

 イスタンブールチェチェン人が殺害されるのはこれが初めてではない。ここ4年間、少なくとも6人のチェチェン人がこの都市で殺害されている。これらの殺人には共通する特徴がある。まず、どの被害者も、チェチェン抵抗勢力の参加者だった。そして、犯行にはいずれもロシア製のグローザ3型拳銃が使用されていること。これはロシア軍参謀本部情報総局(GRU)の制式武器である。

 こうした連続殺人は、トルコの情報機関を刺激しているはずである。10月に入ってから起こった、チェチェンのシャリア法廷の指導者バツカーエフに対する殺人未遂事件の場合は、ボディガードが阻止したが、事件がトルコ情報機関ではなく、チェチェン難民自身によって暴露されたのは意外だった。殺人未遂の容疑者バツマーエフ(この名前はチェチェン名ではない)は、武器とともに警察に身柄を拘束された。バツマーエフは、ドック・ウマーロフの兄弟で、イスタンブールに移民しているワッハの殺害もねらっていたという。

 バツカーエフはチェチェンではよく知られた神学者で、イトゥム・カレの山岳地域出身で、ウズベキスタンイスラム神学教育を受けた。1994年から96年の第一次チェチェン戦争のあとで、バツカーエフは最高シャリア法廷の指導者に任命され、彼のもとで1997年にはグローズヌイで犯罪者の公開処刑が行われた。しかし、世論の反対が強かったため、この刑罰はそれきりになった。その後、マスハドフ政権とワハビズムの抗争の中で解任され、バツカーエフは野党勢力に参加する。

 第二次チェチェン戦争が1999年に始まると、バツカーエフはアゼルバイジャンのバクーに逃れ、数年を過ごした。2008年にドック・ウマーロフはバツカーエフをコーカサス首長国の在外総代表に任命した。バツマーエフはコーカサス首長国を批判しており、ザカーエフとの連携を模索していたので、この氏名は周囲に驚きを呼んだが、結局バツマーエフはザカーエフの批判勢力になった。

(ここでしばらくチェチェン人同士の政治的関係について詳述。ざっと:)

 チェチェンのカディロフ大統領はバツカーエフに帰国を勧めたのに、それに応じなかったので、恨んだ。右腕だったウヴァイス・アフマードフはバツカーエフの仲間だったが、ザカーエフ派についたので、彼はウマーロフの敵になった。

 そんなわけで、バツカーエフ殺害未遂事件のすぐあと、バツカーエフが、アフマードフが殺害の黒幕だと言ったのは驚くようなことではない。一方で、ウドゥゴフはザカーエフが黒幕だとネットで書き、カフカス・センターはロシア情報機関(FSS)の犯行だと決め付け、反対にチェチェンプレスはバツカーエフとウドゥゴフこそロシアの手先だと言い返し・・・(もはや収拾がつかない。訳注)

 暗殺未遂事件の3日後、ウヴァイス・アフマードフほか2名の仲間がトルコ当局に逮捕され、ウヴァイスだけが現在も勾留されている。

 バツカーエフはウヴァイスの逮捕の後で記者会見を開いた。そこで、「ロシア情報機関こそ、この事件の背後にいる。ラムザン・カディロフの関与も考えられる」と発言した。

 トルコ当局としては、自国の情報機関があまり役に立っていないことを認めざるをえないだろう。自国に政治亡命している人物の殺害を食い止めることもできず、難民問題の解決にも程遠い。アメリカとロシアがコーカサスをめぐってせめぎあっているときに、地域大国としてこの地域になんら関与できないということは、今後のトルコの評判に響くであろう。

www.jamestown.org
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