2/20 ラジオ・リバティ記事より

 2ヶ月半にわたって、検察側はアンナ・ポリトコフスカヤ殺害について、法廷の陪審員とジャーナリストを説得しようとしてきた。それは、ジャブライルとイブラギム・マフムードフの兄弟が殺害に関わったということだった。

 マフムードフ兄弟は、組織犯罪取締局の元職員セルゲイ・ハジクルバノフというが作った犯罪グループに、2006年秋から加わっていた。また、検察官は、2002年にハジクルバノフがFSBのリャグゾフ大佐とともに、エドウアルド・ポニカロフという実業家に対して1万ドルの恐喝をした罪があると証明しようとした。

 ジャーナリストたちは、モスクワの軍事裁判所での陪審員の無罪評決には、すこしも驚かなかったといっても過言ではない。かりにそのときに居合わせた私たちジャーナリスト−−たまたま12人だったのだが−−が評決したとしても、結果は同じだっただろう。つまり検察側には説得力がなかった。被告側のムサーエフ弁護士が雄弁だったからではなく、事実があまりに少なかったからだ。
 マフムドフ兄弟は、アンナが殺された時間と不思議にも同時に、あの日モスクワの都心から、彼女の家のそばから電話をした記録があったので、それだけでも疑わしい部分がある。しかし、ハジクルバーノフについては、検察官の主張ーーまさに彼が犯行グループを作って、そこにはマフムードフ兄弟がいて、役割分担をさせ、武器を手に入れ、実行犯に渡したーーとしている。

 しかし、その具体的な状況を検察官は語らなかった。その証拠は何も挙げられていない。ハジクルバノフが2006年秋に何をしていたのか。今、なぜ被告人となっているのか。2002年の職権乱用はどういう関係があるというのか?

 検察官が証明できたのは、2006年にマフムドフ兄弟がモスクワに住んでいたことだけだった。二人がしょっちゅう電話を掛け合っていたこと、2007年にジャブライルが兄の自家用車AZ2104を使っていたこと、ヤグソフとハジクルバノフの携帯の番号を知っていたこと、それだけだ。

 マフムドフ兄弟はアンナを尾行していたことを認めている。そして検察官によれば、2006年10月3日から6日にかけて、殺害のリハーサルが行われた。ジャブライルは現場に行き、イブラギムは計画通りサドーヴァエ環状線とマーラヤドミトロフカの交差点でアンナの車を待った。その後ジャブライルに電話をし、ジャブライルは(彼らとはまた別にいた)実行犯に電話をして、まもなくアンナが家に着くことを知らせた。

 しかし10月3日から6日の間、二人はアンナの家からずっと離れたところにいたというアリバイもある。イブラギムの居場所については、裁判の日程ごとに新しい情報に変わっている。検察官は、サドーヴァヤとマーラヤドミトロフカの交差点ではなく、サドーヴァヤとファデエフ通りの角つまり環状線の反対側にいたと主張している。もしそうなら、アンナがイブラギムのそばを通ったのは、彼がジャブライルに電話をするより15分後になるはずだった。

 ムサーエフ弁護士は繰り返した。アンナ殺害に関与している他のたくさん人たちの証拠を集めることができたが、なぜかマフムードフ兄弟のそれだけが選ばれたのだと。アンナを尾行するような一連の人々の候補が浮かんだ。特務機関、機動捜査局職員など。犯行を計画し、彼女の住居の特定しうる者たちだ。

 検察としては、アンナの殺害事件を解決したと社会に対して宣言した以上、成果を見せなければならず、そのための生け贄が被告席に送り込まれた。検察が集めた人びとーー関与している人もいれば、していない人もいる−−たちのうち、上層部からの邪魔が入らない人、誰の庇護も受けていない者たちが生け贄にされた。疑わしい者は他にもたくさんいたが、彼らは拘束されず自由のままだ。

 アルサメルザーエフ弁護士は繰り返し語っている。

 「公式の解釈では、アンナ殺害を依頼した者たちは<アンナが暴露的に書く批判的な記事やインタビューを好ましく思わない者たち>だ。事件の資料にはアンナの<死を望みうる>たくさんの人々のリストがある。たとえば、ポリトコフスカヤが批判的な記事を書いた人々の名前、役職が記されたリスト。軍関係、治安機関、ロシア連邦の地方政府ーーダゲスタン、チェチェン、イングーシ、カバルジノ・バルカルの政府要人。しかし、その人々の誰一人として被告席に立たず、取り調べさえされていない」

 無罪評決のあとで、すべての被疑者が釈放された。この評決は予期できたが、ロシアにおいて無罪評決が出たこと自体は、おおきな事件と言わなければならない。

 釈放されたジャブライルは、「まずチェチェンの家に戻り、モスクワに戻って大学院に入り勉強を続けたい。一年半前から拘禁されていたため、これが果たせなかったのだ。捜査陣が真犯人を見つけることを、神の助けがあることを祈る。自分が1年半も拘禁されていた原因を作った奴は誰なのかぜひ知りたい」と言っている。

 被告側弁護人たちは大満足、誰より満足しているのがムラド・ムサーエフ弁護士。陪審裁判の初めての経験であり、それが無罪評決を得たのだ。 彼はロシアでもっとも若い弁護士で、弱冠25歳。「評決を出すまで原則を曲げなかった陪審員たち」に感謝している。

 イブラギム・マフムードフの弁護士アルサメルザーエフ氏はこう言う。

 「この無罪評決は弁護人にとっても、チェチェン国民にとっても重要なものだ。これで、ようやくポリトコフスカヤ殺しの真犯人捜しに入れるわけだ。私自身にとってもこれは重要だ。私はチェチェン人だから、この事件で一番悔しいのは、ポリトコフスカヤを殺害した罪が、ポリトコフスカヤにもっとも恩義を感じているチェチェン民族になすりつけられたことだ。そんなことは最悪のシニシズムであり、チェチェン民族の恥だ。今日、父に電話で言ったんだ。<見ろ、俺が正しかっただろ?>と。というのも、父はこういっていた<おまえ誰の弁護をしているんだ? ポリトコフスカヤを殺した奴をだと! もう家に帰ってくるな!>

 「父は老人だ。電話でこう言ってやりたい。<チェチェン人は無罪だ>それが一番大事なところだと言いたい」