「チェチェン戦争」という名のクーデター

チェチェン民族学序説―その倫理、規範、文化、宗教=ウェズデンゲル

チェチェン民族学序説―その倫理、規範、文化、宗教=ウェズデンゲル

チェチェン民族学序説−その倫理、規範、文化、宗教=ウェズデンゲル」の資料編に収録されている、チェチェン共和国憲法などのドキュメントについて、解説文を書いたので、少し長めなのですが、掲載したいと思います。眠れない時や、なにかとてつもなく暇なときとかに読んでいただければ幸いです。この本の資料編はとても地味にくっついているのですが、実は訳者の今西さんが心血を注いだものです。

 憲法の全文はWeb上でもすでに公開していますが、この本に収録する段階で誤植も修正していますので、ぜひお買い上げください。


 一九九一年に、チェチェンはロシアからの独立を宣言した。そして九二年に入って独自の憲法が制定された。それが、本書で263ページに「イチケリア憲法」として収録している法律である。これが、チェチェン独立時代(一九九〇年代)の基本法規であったといえる。
 そして一九九四年〜九六年の第一次戦争でロシア軍は敗北を喫し、チェチェン政府とロシア政府は「ハサブユルト和平合意」を結んだ。これも資料編に収録している。この合意によれば「ロシアとチェチェンの相互関係は、二〇〇一年末までに定められる」としている。つまりチェチェン独立問題を、五年間棚上げしたのである。
 あけて一九九七年一月に「イチケリア憲法」によって行なわれた大統領・議会選挙で、対ロシア穏健派のマスハードフが大統領に選出された。そして次に登場する文書が、ロシア・チェチェン平和条約である。「ウェズデンゲル」でも何度か言及されるロシアとチェチェンとの歴史的対立について「数世紀にわたる敵対関係の終結をめざし」て合意されたものだと前文にある。
 この条約はチェチェンの地位についての言及を避けたものではあるが、今後ロシアとチェチェンは決して武力によって紛争を解決しないと明言したものであり、この条約が守られてさえいれば、第二次チェチェン戦争を避けることができたはずである。敵対関係の終結を謳った点も含めて、きわめて貴重な文書であることは言うまでもない。
 エリツィンプーチン政権は、この条約もマスハードフの地位も否定してチェチェン侵攻を開始し、ついに二〇〇三年に入って、チェチェンがロシアの一部であることを認させるために新しい憲法案の国民投票を行った。これが290ページの「ノフチーン憲法」だ。
 戦争の最中に行なわれた、この疑わしい国民投票は、公式発表では投票率八九%、うち賛成九六%という圧倒的な「支持」を得てこの憲法案がチェチェン人に選択されたことになった。
 しかし、欧州安全保障協力機構などが監視活動を見合わせたため、この国民投票には国際的な監視団は入らなかった。また、複数の人権団体の報告によれば、投票所にはほとんど人が来ず、テレビカメラが入る場所だけは大勢の人が集められていた。さらに、隣国イングーシに設けられていた投票所では、名簿上の有権者数の倍近い投票数があるなど疑問点も多く、この国民投票の信頼性は低い。

独立期チェチェン憲法の骨子

 内容の詳細な検討は専門家に委ねるとして、ここではごく簡単に、二つの憲法の特徴を記しておこう。
 まず「イチケリア憲法」であるが、これはアメリカ合州国憲法に似た大統領制を特徴としており、行政、立法、司法の三権分立と、基本的人権を保証するイスラム世俗国家である。
 大統領と議会の関係で言うと、大統領が直接選挙で選ばれて内閣はこれに任命され、大統領と内閣は一蓮托生の関係にある。
 議会との関係では、大統領側に法案の拒否権があり、議会側には内閣不信任案の提出権と、大統領の解任手続きができる強みがあり、拮抗している。憲法の不法な運用を監視する憲法裁判所など、裁判官はすべて議会が選出することになっている点には疑問が残るが、全体として近代的な立憲主義に基づく憲法の基準を満たしているといえよう。
 また、国教は第四条によってイスラム教と規定しているが、これは特にこの宗教を優遇するものではなく、第二一条では信じる宗教に関係なく法の下の平等を認め、第四三条では「いかなる宗教も信仰しない」権利も保障しているので、政府の構造は世俗的なものである。
 国民の権利の面で目新しいのは「好ましい環境に対する権利(第三四条)」(環境権)があることだろう。これは日本の憲法にも明文化されていない。
 つぎに、ロシア政府と親ロシア派政権によって作られた「ノフチーン憲法」についてだが、これはチェチェン共和国ロシア連邦内の一行政単位であると位置付けたものである。本来なら「イチケリア憲法」との比較をしなければ公平でないかもしれないが、ここでは紙幅の関係で次の点を指摘するにとどめたい。
 この法律では、チェチェン共和国の運営に係わる事項のうち、ロシアとチェチェンの「共同統治対象」についてはロシア連邦法が優先し、連邦法とチェチェンの法令に矛盾がある場合もロシア連邦法が優先する(第六条)。
 また、第七四条にはロシア連邦大統領がチェチェン大統領を解任できるという規定さえあり、これに対する対抗処置は存在しない。
 チェチェン大統領は、選挙で選ばれることになっているが、日本で言えば県知事の地位にも値しない。
 このように性格が違う文書なので、実は比較することはむずかしいのである。
 あえて言えば、独立時代の「イチケリア憲法」が可能としてきたことの最重要なポイントは「領土に関する究極の権限」を「権力の唯一の源泉」である国民が確保している点であり、つまり主権在民が明確にされている。
 しかし、ロシア政府によって押し付けられた「ノフチーン憲法」は、この権限を「共和国権能の限度内において」国民が持つとしか述べておらず、イチケリア憲法からすれば、かなりスケールダウンした内容である。
 二〇〇四年のベスラン学校占拠人質事件以来、ロシア各州の知事は選挙制から連邦政府の任命制となり、一気に中央集権化が進んだ。チェチェン憲法もその例外ではないということになる。

第二次チェチェン戦争の意味

 こうしていくつかの法律文書を見ていくと、第二次チェチェン戦争の持つ意味が浮かび上がってくるのを感じる。
 チェチェン憲法は、まず独立国家として設計された。できたばかりの小さな国の憲法が、その理想どおりに運用されてきたかどうかは議論の余地があるが、こうした憲法が作られ、維持されてきたという事実が大切だ。
 そして、第一次戦争を経て、ハサブユルト合意によって、二〇〇一年にはチェチェンが独立するかどうかが決まるはずだった。この交渉に双方が誠意を持って臨めば、たとえ完全独立とまでいかなくとも、チェチェンがより高度な自治権を獲得する可能性は高かった。
 しかし、この交渉を前にした九九年、エリツィンプーチンの両政権はチェチェン軍事侵攻を開始し、二〇〇三年には武力を背景に「ノフチーン憲法」を強引に採択させた。
 さらに二〇〇五年にはマスハードフを暗殺したのだった。
 イチケリア憲法には「共和国大統領権限の簒奪は不法であり、無効とする(第七一条)」といい「暴力によるチェチェン共和国立憲体制の転覆を目的とする政党、社会的連合組織はこれを禁止する(第五三条)」という。しかしこうした暴力を押しとどめる力が政府と国民になければ、その憲法は殺される。
 フランス革命に見るように、革命によって人びとが政府を倒すことが、歴史的に大きな意義を持つ場合があることは否定できないが、第二次チェチェン戦争は、ロシアという、より大きな権力と軍事力によるチェチェン政府の転覆であり、二つの「憲法」の間に横たわっている隔絶は、まさにクーデターと呼ぶにふさわしい。
 二十万人のチェチェン人の命を奪った未曾有のクーデター=チェチェン戦争の目的はただ一つ、チェチェンの独立阻止だったのである。(富)