2009.09.01 ラジオリバティ

ベスラン

ウラジーミル・カラムルザ: 2004年9月1日ベスランの第一初等中等学校がテロリストに占拠された。ロシアの歴史はじめって以来の大テロ事件。1200以上が人質になった。学童、父兄、教師…。
 しかしこの事件は、真相が誰にも伝わらないように仕組まれた。
 報道関係者はいわゆる作戦本部経由の情報しか使ってはならないとされ、人質の人数、テロリストが何も要求していない、など、嘘の報道が全世界に流された。占拠された学校への突撃開始を最初に報じたのは海外のメディアだった。
 学校は地雷をしかけられたまま、9月3日に突入があり、その結果330人が死亡、うち子供は180人。
 その直後に、プーチン大統領州知事を選挙で選出する制度を廃止して、テロの脅威に効果的に対処するためと説明した。ロシアのメディアがこの悲劇を報道するのがどれだけむずかしかったのか、訊いてみたい。
 ノーヴォエ・イズベスチヤとコメルサントの元編集長、ラフ・シャキロフ、今は“Dailyonline.ru”の編集長である。ベスランの悲劇が始まったときの御社の対応は?

シャキロフ: 報道という点からいうと、我が社はついていた。あの頃、イズベスチヤのレチカロフ論説員が、自爆テロに関わるの女たちについて調べるために、チェチェンに行って取材していた。その記事を新聞の一面に載せて、彼らがどういう使命を帯びているかを書いた。するとFSBの広報から電話があり、モスクワ市民をいたずらに怖がらせることはない、と非難された。その2日後に地下鉄事件だった。その犯人たちは 我々の新聞の一面に載っていた女性たちだった。レチカロフ記者のチェチェン出張はそのまま続いた。

 そしてベスラン事件が起きた。レチカロフ記者がその時にチェチェンにいたので、ただちに現地に向かった。グルジアに行っていた女性記者も、すべてほうりだして現地に行った。というわけで、イズベスチアは他社よりずっと有利だった。
 人質の人数については、きわめて単純にこの学校の生徒の人数から算出して報道した。レチカロフは解放された人質の一人にインタビューすることができたが、その場では答えてくれたが、その後人質は物を言うのをやめた。

 なんにしても、最初にベスランの記事が載ったのはイズベスチヤの一面で、しかも人質の正確な人数も入っていた。クレムリンは、その10分の1の人数と発表していた。そういう事情*1があった。つまり、最初から最前列に居合わせたのだ。
 いろいろな事実を我々が知ることができたのはまさにあのときの機敏な対応のおかげだ。

カラムルザ: ユーリヤ・ラティニナはノーヴァヤ・ガゼータやエコー・モスクワの論説員。5年前のことをよく覚えている。

ラティニナ: プーチン大統領はモスクワに帰った。彼はソチから戻るところで、飛行機でナリチク(北オセチアに近いカバルディノ・バルカリアの首都)の学校の開校式に向かっていた、ナリチクはベスランから遠くない。それなのに彼はベスランに向かわず、飛行機の向きを変えてモスクワへ行ってしまった。これはベスランについて何の決断もしないという決断だった。
 そしてプーチンにならって下っ端のボスたちも皆それぞれの小型機の向きを変えてしまった。すべてが最終的に混乱してしまったとき、プーチン大統領はやってこない、そのかわり、チェチェンからマスハードフ大統領(独立派)がやってくることが伝わってきた。マスハードフはそっぽを向かず、ベスランに来る用意があるとわかったとき、これに対してどうにかしなければならなくなった。そのとき、ちょうどタイミング良く、何か爆発が起き、テロリストが自爆したのだと皆が言った。わたしたちは皆テロリストは人間ではないということを受け入れていた。だが今はこれがテロリストが体育館にぶら下げた爆弾の爆発ではなかったらしいとわかっている。

カラムルザ: イズヴェスチヤ編集部では人質がテロリストから託された、要求を提起しているビデオテープのことを知っていたんでしょうか?

シャキロフ: それは知っていたが、現場で要求を知ることはできなかった。もちろんその中身はアマチュアが撮ったものではなく、何らかの要求を提起したものだった。いずれにしても要求のことが報道されたのはずっと後だった。突入の後だった。そういう詳細がわかったのはすべて後だった。
 細かいことがわかってきたのは裁判の過程でだった。あの当時メディアが書いた「子供たちは十時砲火にさらされた」とか「あれは偶発的な爆発ではなく 突撃だった」とか、それもイズヴェスチヤに載った。裁判の過程ではもっとショッキングなことがでてきた。戦車による襲撃とか火炎放射器との使用とか。

 報道が難しかったかって? もちろん。まず自爆テロの女性たちについての記事に対して、いたずらに社会不安をあおってはいけないと警告されて、次の警告はベスランの学校占拠直後。この事件は「平静」に報道しなければならないと言われた。「平静」な報道とはどういうものか、あのころの新聞を見ればわかる。「ラシースカヤ・ガゼータ(ロシア政府機関紙)」では、ベスラン事件は文化行事などと一緒に扱われていて、何事もない日常が続いているという風だったし、天気予報などと同じ扱い。
 あたりまえの報道関係者なら テレビで流れていることが厚顔無恥な嘘ばかりだということはすぐにわかっていた。我々がテレビで見たことさえ隠そうとしていた。NTVではあまりにしゃべりすぎたアナウンサーが交代させられた。新しいアナウンサーは、レポーターの口を封じようとした。たとえば「今の段階で推定される犠牲者の数は」と言いかけると、アナウンサーが「犠牲者の正確な人数はわかりません」とたたみかけて現地からのレポートを終わらせてしまった。
 われわれは軍隊の訓練とか受けたことがあるから、戦車砲の音を知っている。記者たちは異口同音に「あ、擲弾筒が発射されました!」と言うけど、擲弾筒の音と戦車の音は取り違えることなんかできない。つまりすべては嘘ばっかりだった。
 突撃のあとのイズベスチヤに、ペトロフスカヤが真っ赤な嘘について書いた記事を載せた。こういうショッキングな事実や、「突撃があった」と書き、それを認めた対テロ専門家のコメントなどいろいろ書いた。

カラムルザ: ワレリー・ヤコフ ノーヴィエ・イズヴェスチヤの編集長。 チャンスを逃したことを残念がっている。

ヤコフ: ベスラン事件後の5年間、何も明らかになっていない。なぜあれが起きたのか? 突撃は正しかったのか? 解放や子供たちの救出のやり方は正しかったか? 何も。この事件の調査のことを世論に忘れさせ、事件が客観的に報じられたかなど忘れさせることだけが成功している。残念ながらメディアはあまり良い役を演じていない。大部分は事件のことも忘れてしまい文字通り一部の報道機関だけが徹底的に調査をして社会に情報を与えようとしている。しかし、「ノーヴァヤ・ガゼータ」のような新聞の部数は圧倒的に少ない。この悲劇の規模はあまりに大きいので、政権が変わればこの事件の真相に迫ることはできるだろう。まだあきらかにされていない真相が表に出るだろう。

視聴者からの質問: シャキーロフに質問。ヘミングウエイやグロスマンのような従軍記者の記事を読むと何のために書いているのか伝わってくる。人々に真実を伝えようとしているのが。もちろん戦線でそういうレポートを書くのは難しかっただろう。でも、今でも読ませる。ところが今ロシアのテレビが流すベスランについて あるいはツヒンバリ(グルジア紛争)についてのレポートというのは、どうにもならない嘘八百。われわれがジャングルに住んでいて何もわからないとでもいうのか? その一方でCNNを見てやっと真実がわかる。俺の質問は、こういうばかげたプロパガンダをなんで「現場からの中継です」なんて言うかっていうことだ。

シャキーロフ: たしかにこれは言葉のすり替えだ。わたしも「ヴェスチ」で編集長だったこともある。第一次チェチェン戦争のころ100ルーブルの出張手当をもらって弾丸の飛び交う下をくぐってカメラをもって駆け回っていた人たちを連れてきたことがある。本物の銃火の下をくぐっているようなレポートは必ずわかる。名前は言わないがたとえばオセチアの戦争を報道して褒賞を受けている連中がいる。軍の降下部隊と話をつけてあって、弾丸は後ろを飛ぶようにしてもらい、まったく心配なく現地ルポをやっている連中だ。そういう報道関係者はいたし、これからも居て、残念ながらそういう連中が生き残る。まったく現地ルポなどではなく 報道のまねごとにすぎない。

カラムルザ: 次に紹介するのは 弁護士 ユーリー・イワノフ、下院のベスラン事件調査委員会メンバー。

イワノフ: この委員会は21人のメンバーからなっている。サベリエフ教授、元弁護士イワノフの二人だけは公式見解にサインすることを拒否した。しかし、この委員会に参加したからといって、見解に制限があったわけではない。サベリエフ教授は本を書いたし、わたしもサヴェツカヤ・ラシヤ紙に大きな記事を書いて自分の意見を述べた。公式見解との違いは単純なことだ。つまり、暴発(犯人たちの爆弾の爆発)などなく、最初の爆発は治安機関の側の行動によるものだったと言うのがわたしの見解だ。
 そして取り締まり側に指示をできたのはプーチン大統領以外にないということ。そこで 突撃が始まり、きわめて強行なやり方だった、そのために一般市民の犠牲が大きくなり、突撃隊の犠牲も多くなった。占拠されていた室内の掃討作戦が行われ、特殊部隊「アルファ」の隊員は弾丸の雨の中を進軍させられ、そのために特殊部隊の犠牲がおおくなった。

カラムルザ: トルシン委員会に証人として報道関係者は呼ばれなかったのか?

シャリコフ: ジャーナリストは 誰も呼ばれていない。ただ、ノーヴァヤ・ガゼータやコメルサントも裁判をフォローしていた。これは特別な事件だったので、わたしもインターネットサイトでフォローしていたし、オランダやドイツやいろいろな国のジャーナリストたちと意見を交わして、自分の目で見たり、撮影した記者たちとともに実際に何があったのか全容を再現しようとした。もちろん、その後に起きたいろいろな事態も追っていた。
 そうするうちに、細かいことが明らかになった。もし今トルシン委員会での聞き取りやその後のことに裁判を公表したら、ショッキングな文書ができあがるだろう。あまりにも現実離れしているからだ。
 攻撃は戦車を使って背後から行われ、その戦車は武装勢力に放火された。学校の建物の中では火炎放射器が使われていた。犠牲者の遺体を連れ帰ろうとしていた非常事態省軍の将校たちをかばおうとする陽動作戦があり、まさに瞬間に爆破が起きた。
 そのとき特殊部隊「ヴィンペル」の将校たちが銃撃を始めた。これは我が社の記者が目撃している。その後将校が駆け込み、銃撃は一瞬やんだ。パニック状態が起きてしまったからだ。十時砲火を浴びてしまった者もいた。
 あの作戦は身の毛よだつようなものだった。非常線なんかなかったし、偵察なんか行われなかったし、なにもかも一度にぐしゃぐしゃに起きた。そして、そういう痕跡のすべてを消し去ったのだ。周知のことで、北オセチア共和国の指導部も認めたことだが、人質の一部が、事件のあとモズドク(ベスランから離れた北オセチアの首都)で見つかった。つまり、テロリストは人質の一部をつれて逃げたわけで、現場では殲滅されていなかったということだ。人質がすぐ近くにある自分の家に戻らず、自力でモズドクにたどりつくなど考えられない、それなのに。
 あの作戦でわれわれの、ロシアの若者たちが失われたなどと言うが、もちろん、遺族に哀悼の意を表しはするが、しかし、その若者たちを死なせた指導者はどうなんだ? わが国の特殊部隊の使命というのは、敵を殲滅することしかない。人々の命を救うというのは全然別のことだ。命令はただ一つ、「敵を殲滅せよ」。
 ノルド・オストでもそうだった。特殊部隊と言っても、別に特殊な手段も訓練もない。電磁波だ、赤外線透視だといろいろな分野の最新兵器が開発されている国なのに。ところが、特殊部隊は軍隊式の使命を帯び、通常軍の手段を使っていて、それは平和時に人質事件がおきた場合に使うやり方ではない。特殊作戦の方法はまったく別のものになるべきだ。そのことをイズヴェスチヤもその後書いている。
 多くの人はジャーナリストはなにかほじくり出しては、すばらしい祖国に泥を塗っているなんて思っているが、私たちが報道したために、爆破現場の緊急医療の水準が上がったことだってあるんだ。
 ちなみにそのころモスクワ・ニュースとノーヴァヤ・ガゼータは週に2回でていたし、イズヴェスチヤのモスクワ版には夕刊もあった。

カラムルザ: アンナ・ポリトコフスカヤが軍の飛行機で現地に向かって、着いたのはロストフの空港だった。リバティのバビツキー記者はヴヌーコヴォ空港で5日間拘留されていたんですよね。

視聴者 テイムラズ・アレクサンドロヴィチ: すべてを分析した、プーチンについての本を書くことにした。プーチンになってから起きているどのテロ事件でもプーチンは自分の目的に利用している。ついおととい、ビデオを見た。5年半まえのベスランの事件の半年前のNTVの放送だ、ルイシコフとヴェシュニャコフが選挙のこと話している。ルイシュコフが言っている「あなたはどうして我が国には4つの政党しかのこらないと確信を持っているのか」と。そしてテロ事件の3日後にプーチンが突然言い出す、「こういう事態がおきたこともあり、・・・を廃止する」とかなんとか。捜査をすすめるとき、この犯罪で得するのは誰か?と問うものだ。プーチンは「ノルド・オスト」にも、NTBにも襲いかかったのだ。彼らが見せてしまったとき、そして 「あなたは他人の血で自分の格付けをあげようとしているのだ」と語った時に。 プーチンは子供たちを犠牲にしてテロを活用している。確信しているが、テロ事件の90%は特殊部隊がしくんでいて、そのことをプーチンは十分わかっている。
(ここまで整理済み)
武装勢力の数名は二重スパイだったという(つまり連邦側が送り込んだものだ)情報についてどう思うか?

シャキロフ: それについては十分なうらづけはない。正直言って、ベスランについてはそういう仕組みがあったとは思えない。ただこの、権利に対する反撃というのは前もって用意されていたものだ。イニシアチブをとらえる、ということに利用したのだ、ベスラン事件では、イズヴェスチヤがやられた。ノルド・オスト(モスクワ劇場占拠事件)ではNTVがやられた。わたしもその場に居たのだがプーチンは言った「このひとたちを味方だと言うなら」と。

ボリス・ヨルダンの出身のことを言っていた。

シャキロフ そうかもしれない。 それにしてもあれも生放送ではなく、録画だった。あとからあれは生放送でなく録画だったのでなにも本格的な影響など与えなかったと言ったところで何になります? ああいう形で非難されてしまったら あとから あれは生放送でなかったから撤回するなどと言ったって事態は変わらない。 結論は先に用意されていたのだから。 二重スパイについていえば そういうことを言うにはそうとうの証拠がひつようだ。そういうことで何か説明がつくと正直言って思えない。それより大事なのは
ベスラン事件のあと何も保安ということで結論がでたわけでもなく政治的な結論もなく5年たった今だれも思い出そうともしないということだ。

イーゴリ・チュバイス、民族友好大学ロシア研究センター長は肝心の問いにまだ答えを得ていない。

チュバイス  多くのことが明らかにならないままだ。いろいろなことが取り違えた混乱のままだ。あの悲劇的な日々、この事件は マスハードフが仕組んだものだと 言われてきたが、その後、明らかになったのはマスハードフは逆にベスランにたどりついてテロリストを撲滅しようとしていたということだった。マスハードフはベスランに行くことを許可するように、 そこに行くことをじゃましないでくれとたんんでいたということ。 そのほか多くのことが明らかでなく、解明されず、究明されていない。ベスランの母親たちのことは忘れてしまおうとしているし、この問題が解決されていなくてもなにも驚くことはない。ダゲスタンではまた爆破がおきている、9月1日のこの事件とかかわりがあるだろう。 すべての真実が語られるまでは何もわからない。

あのとき アンナ・ポリトコフスカヤがザカーエフと話をつけようとしていたことや、アウシェフ大統領が幾人かの子供たちを学校から救い出したことについてわかっていることは?

シャキロフ アウシェフとはまさに我が社の記者が遭遇した、それで 最初に解放されたひとたちのインタビューをとったのだ。 たしかに勇気のいる行為だった、それを隠すことはできなかった。しかし、その後だれも アウシェフと話そうとしなかった。ほかのおおくのひとたちも子供たちを連れだそうとこころみていた。それがうまくいったひとは賞賛に値する。あのころまだ マスハードフとジャジコフやほかのリーダーたちがくることを テロリストたちが 要求していることははっきりわかっていなかった、ジャジコフやそのほかの指導者たちは 自家用小型機を方向転換して居なくなってしまった。そばに来ることさえしなかった。一番驚くべき事は当局の誰一人このことの始末をつけようとしなかったことだ、だれも罰せられたものはいない、とばっちりをうけるのはいつもその役周りの小物ばかり。だれがあの作戦の命令を下したのか推定はできるが、実際に指揮したのが誰なのか、なぜ戦車を出したのか?なぜ、厳しい封鎖がおこなわれないで作戦を始めたのか?ノルド・オストのときと同じく、疑問はたくさん残っている。
 大事なのは ああいうことが二度と起こらないでほしいということだ。
 しかし、ホントに残念ながら、おなじ過ちが繰り返されている。ベスランについての調査ではこれらの解決が求められている、すべての誤りを検証し、それは政治的指導について、また 作戦そのものについて、こういう作戦についてのアプローチについて、特殊部隊の装備についてなどなど。 あの青年たちについての扱いだって問題だ。特殊部隊の青年たちが犠牲になった、というが、たまたま 編集長たちが クレムリンに呼ばれたとき
「アルファ」グループが褒美をもらいに来たのを思い出す。偶然見かけたのだが 外はどしゃぶり、このひとたちは黒のスーツにネクタイの正装。それで爆発物検出のフレームを通る列に 土砂降りの雨のなかで並んでいる。英雄たちをこの扱いだ。もちろん、彼らはそうしろと教えられたとおりに任務を遂行した。それがどういうふうに行われたか ひどいものだったが、それはこの指揮官たち、政治的な指導部に問うべきだ。残念ながらわれわれは戦時でないときの テロリスト対策のやり方を学んでいない。西側では特殊部隊が救出作戦をするときはまず人命救助が第一となり、それを基準に方法が選ばれる。地雷をしかけられた建物に誰が入っていけるか? それは 判断など失った、とにかく敵を殲滅せよという命令を受けた者だけだ。テロリストたちが子供たちを盾にしようというときに
そこで 火炎放射器なんか使うなんて!そういう学校に戦車を向けるなんて!これは、分別をなくした命令だ。必要な偵察も行わないで実施されたのだ。
 文書類をわざわざ調べてみた、FSBの行動と関係のある事件についてだが、命令がどのように出され、現場の封鎖がどのように行われるか、記録映画もいやというほど見た。それでわかったのは 誰一人判断したり、決断を下したりしない、みな、モスクワからの指令待ち、モスクワは 結果を出せと催促するばかり。特殊手段をあたえるでもなし、偵察を行うチャンスを与えもしない、あるのは正面突破ばかり。残念ながらこれはエリツインのときもそういうことがあった。
 
「アルファ」グループOB会会長セルゲイ・ゴンチャロフ、下院「統一ロシア」会は議員、は公式見解を信じている。

ゴンチャロフ 特殊部隊の理解ではベスランの学校への突撃はなかった、われわれの将校たちが子供たちを救出しただけだ。だから我々の側の犠牲があんなに多くかった。もちろん起きたことは悲劇的だったが、特殊部隊が突撃したとは言えない、あれは子供たち救出作戦だった。あの状況でほかのことは不可能だった。5年分の歴史をもとに戻すことは難しいし、あの状況で交渉をすべきだった、こどもを救出するときに特殊部隊がおかれたあの状況で というのは難しい、歴史を逆戻りさせることはできない、起きてしまったことは起きてしまったのだ。

シャキロフ  起きてしまったことだ というのもひとつの見解だろうが。そういうことがまた起きてしまうそのことが問題なのだ。そんなことは絶対許されてはならない。政治的なことを言うつもりはない、交渉をすべきだとかそれは脇に置いておこう。あの作戦を特務機関は突撃だったと言いたくない、あとになって あれは 子供たち救出作戦だったのだと言う。 そう名付けたいならそう言うがいい。しかし、あの建物に入るために最初の爆破をしたのはだれだったのか?率直に言えばそれが問題なのではない。作戦がどのように進められたか?ということだ。たとえばそのための偵察が行われたか?なぜ、武装勢力は結局逃げることができたのか?なぜ、火炎放射器なんか使われたんだ? それはこうこうこういうことだったと説明できるやつがいるだろう。しかし、こういうことを誰も調べようとしない。特殊作戦ようの武器や防護装置はどうなってるんだ?あのときに亡かったというならしかたない、しかし、あれをひとつひとつ丁寧に分析して、今ならどのように できるということも何もない。たとえば 壁をぶちやぶるのに 爆破しなくたって とりのぞく装置はある、高価なものかもしれないがまさに特務機関こそもっているものだろうし、そういうところは我が国にふたつしかないんだから、国がきわめて特殊な装置を与えることだってできるはずだ。学校に突入した若者たちは 確実に死ぬことを知っての決死隊だった。彼らの勇気には ただ頭が下がるが、こういう軍事行動を指導するひとたちに訊きたい。

カリニングラードの視聴者から  こんばんは。わたしは、チェチェン戦争のあの猛烈なすさまじさをしらない者がやるように、自分の言葉を修正したり、抑えることができない。
チェチェン連邦軍が行った獣のような行為を見た者として感情的にならないでいられない。だから遠慮なく言わせてもらう。ベスランの悲劇については、わたしは確信を持って言えるが、武装勢力が学校を占拠したということではない あれの原因はロシアの特務機関のしわざだ。

シャキロフ もう一度言わせてもらうが 今視聴者が言ったようなことの裏付けとなるデーターはまったくわたしは持ち合わせていない。ちなみに あそこに居た、目撃者たちと話してみるともちろん事態は言われているようなことではなかった。もし あのたぐいの作戦を行おうとするならばおそらくあんな被害をださずにできたはずだ。重要なのは どういう目的で行われたのかということだ。考えてもみてほしい、あの事件に続いてとられた措置の数々は、ふつうの学童だってわかるが、ベスランにはまったく無関係のことだった。 地方行政の長を任命制にするなんて いったいテロ対策とどういう関係があるというのだ?まったく関係なしだ。

「ベスランの真実」というサイトの編集長マリーナ・リトヴィノヴィチが、テロリストひとりひとりについて調べたことを「週間ブログ」に載せた、つまり誰があの事件までに何度特務機関に捕まったことがあるかということを。そのうちの数人が兄弟の葬儀のために監獄から出されていた。おそらく、いまの視聴者はこれを読んでいたのだろう。シャキロフ記者のかつての同僚であるイワン・エゴロフは「ガゼータ」の軍事記者だが、あの事件のころ現地に行っていた。

イワン・エゴロフ あのとき一番むずかしかったのは情報をとることだった。9月1日の段階では公式情報はまったく何もなかった。誰がなんのためにどうして占拠したのか何もわからなかった。 当然、すべては現場で 調べるしかなかった。情報の伝達に関して言えばさいわいなことに なんの検閲もなく、どこにでも好きなところへ誰でも行くことができた。手榴弾がとんでくるところのすぐそばで学校のちかくに居られたら当然私はラジオに生放送を流せたし、人質の人数が300でなく、1000人近くの人が中にいることがわかった時にはそれも伝えられた。一番たいへんだったのはテレビ関係者で、広場に集まっていた人たちだ、そちらは公式のスポークスマンに何か言われていた。彼らはそれを放送させられていた、当然テレビカメラをもって 現場にもっと近づくなどできなかった。われわれラジオが居なかったら あの悲劇について国中のひとは全く真実を知ることはなかっただろう。
エゴーロフが今検閲と言ったが、ベスランの出来事のあとでシャキロフ記者に対して行われたことを検閲ととっていますか?

シャキロフ  わたしはイズベスチヤでほんとに自由に働かせてもらっていた、ヴァワ・アキポフにお礼を言いたい。新聞内部ではまったく自由だった、クレムリンからの警告はあった、もっとおとなしくしろというような、でも 社内でああしろこうしろはまったくなし、自由だった。あの突撃があったときなんかまったく警告も指図もなにもなし、おそらく連中はほかのことで手一杯だったんだろう。自分が退社したということについてはもちろんこれと関係ありだ。社主と会って、生け贄が求められていると、それで わたしは編集部を後にする、すべてはわたしが責任をとる、とそういう形になった。もちろん、これは明らかなシグナルだった、たくさん記者は居た。地下鉄爆破事件もあったし、われわれが人質の人数を最初に知らせてしまったこともある、子供たちが特殊部隊の十時砲火に会ったなんてレポートは裏切り行為に等しかったんだろう。そんな情報はだれも訊きたくなかったんだろう。だれも隠さなかった「イズベスチヤ」は特別扱いなんだ、と。だからほかのメディアが怖がるように見せしめとしてやられたんだろう。もちろんこれは検閲だし、どこまでは許されるという限界を示している。ソ連時代とちがって今は内部検閲が働いていて、編集者の一人一人が何か載せる前に百回も考えなおしてみている。 そんなことをわたしはやりたくなかった。
 
多くの人たちがイズヴェスチヤのあのときの写真入りのレポートを記念にとってある。同じ日にでた「コムソモルスカヤ・プラウダ」には亡くなった180人の子供たちの写真が載っているがこれについては なぜか何も問題とされなかった。

シャキロフ  あれは少しあとになってでた、それにそのあと次々ににたくさんの写真がでてきた。こどもたちのことだが 写真が問題ではない。どうしてこういう噂になったのか?雇い主のがわからわたしにたいするクレームがあったんだろうと。しかし、これはつくりごとだった。新聞のつくりがかたはずれであるとか写真がどうとか。もちろんクレムリンの気に障ったのは写真ではなく、あの事実が新聞に載ってしまったことだ、突撃があり、十時砲火があびせられ、子供たちがそれで死んだ、ということが。それと写真だ。 「イズベスチヤ」は全国紙だ。それが どういう視点で何を報じたか、ということ。それにテレビでそのポジションもいろいろ論じてしまったし。特殊部隊の行動について、また西側の特務機関の専門家たちのコメントなど特別なページを割いて紹介した。全面的に解明しようとしたものだった。これを読めば当局の完全な敗北だというのがわかるものだった。

モスクワの視聴者  気を悪くしないでほしいがまず批判させてもらう。これはすべて仕組まれたことであって、政府のだれもこのことを今後処理しようとはしないだろう。彼らは平然とすべてをかくしてしまった。こういうことは全部処理済みだ。 今は少し中国人を前に押し出すべきだ。つまり、我が国の人口を少し減らさなければならない。つまり、これはとても興味深い開発されたシステムなんだ。

「ベスランの母たち」という団体に対してことしの春税務警察が私立学校「コラロヴォ」での教育費を告訴しようとしたことについてどう思うか?

シャリコフ  まず、裁判のはじめの頃に当局はメディア対策をどうしたらいいかを学んだ、「ベスランの母たち」は最初ひとつだったが それを分裂させることに成功した。それからきたないやり方が始まった、中傷だ、税務の違法行為などというのもプレッシャーだ。ベスランの子供たちがこの5年間どのように生きてきたか 今日サイトに載せるが、そこに裁判のエピソードがある、これはBBCの撮影したもの。まるでつかみ合いのけんかにならんばかりだった。というのも裁判ではあまりに平然と嘘が述べられていて、そんなものをあの悲劇を経験した者たちは耐え難かった。このベスランの母たちの裁判というのは挑発なんだ。子供たちを失った母親たちに耐えろなんてこの状況で言うのは無理だ。

あのときのロシャリ医師の行動はおかしかった。ヌルパシ・クラーエフの裁判を皆でボイコットするように呼びかけてくださいと誰かに頼まれていた。

シャキロフ  ノーコメント

*1:当局が捏造した数字を、はからずも最初にイズベスチアがくつがえしていた