ノーヴァヤ・ガゼータ紙:「爆発の後の轟音──犠牲者はもっと少なくできたのではないか?」

2009.11.27





11月27日 土曜日

 県の中央にあるボロガ病院の担当者の疲れた声は、爆破事件に遭って搬入された人が助からなかった事を物語っていた。家族を呼ばないように要請した。彼女は恐れてはいなかったが、「悲劇の中の光」を求める事はしないと話した。彼女の言葉によると、最初の患者は、土曜日の深夜一時から運び込まれ始めた。

 患者は26名おり、そのうち2名は途中で死亡した。被害者のうち、病院に残ったのはたった3名だった。他はモスクワやサンクトペテルブルクへ運ばれていった。

 県の病院以外に、小さな町オゼルニーの病院にも、10名が運び込まれたが、翌日には彼らも別の場所へ移された。ひどい場所だった。朽ちたカビだらけの壁、耐え難い臭い……。患者のベッド、ベッドカバーと部屋のカーテンといったものが廊下に残されていた。亡霊のようにさまよう老人を見ながら、もう誰も生き延びていないのではないかという思いが浮かぶ。

 院長の代理人に訊いた。ここでは最後にいつ修理が行なわれたのか? 彼女は私を見ずに、引いた声で答えた。

 「すべて順調です。薬は充分ですし、何も必要ありません」。言い慣れた言葉のようだった。彼らは善良で思いやりがあり、出来ることはすべてやっていた。しかし不十分な力しか持っていない。この病院には、不可欠な薬や深刻な手術の為の設備があるのだろうか? もしトイレにきちんと水が流れ、漆喰が剥がれ落ちなかったら、そんな風には思わない。やがて医師の一人が私に近づいてきて、厳しい口調で言った。

 「私達については書かないで下さい。病院も苦しいんです」
 「事情は判ります。むしろ記事に書くべき事としてですが。再建のための資金は集められないんですか?」と私は尋ねた。
 「いえ、もうすぐ閉院します」そう答える彼らの目は信用できた。「了解しました。では書きません」彼らは私達を応接間で寝かせ、お茶を提供した。
 彼らには笑顔とおもいやりのための力が残されていた。10人の重度の患者を世話した眠れない夜の後の彼らにとって、私達は一体何なのだろうか?

11月28日 日曜日

 事故の現場へ移動した。トヴェリ県知事のドミトリー・ゼレーニンは私達に「事故に関する連絡を受けた後、すぐに20台の救急車が全県から集まった」と答えた。5分間のうちに彼らは出動し、昼過ぎには現場にいたというのだ。私はそれを信じていない。

 事故はボロガから40キロ位のところで起こった。そこへの道は、ぬかるみ、水溜り、よじ登れない粘っこい泥だった。少なくとも1時間半掛かって着いたはずだ。

 ・・・めちゃくちゃになった車両が、網で覆われていた。最後尾の車両は、一方が地面に埋まり、反対側は空に向けてぶざまに突き出していた。

 後ろから2両目の車両はわずかに横へずれていた。3両目は遠くに見えたが、2両目程ひどくはなかった。周りには椅子や、流れされた血、ごみや破片、包帯等々がちらかっていた。体が鉄のように硬くなるのが感じられた。事故はすべてが一瞬にして起こったようだった。それは突然の混乱の絵図である。車両の内側の壁は血塗られ、焦げていた。

 車内の棚には、不自然なくらいきちんと日刊紙が置かれていた。残されていた手帳は、おそらく真面目な人のものだったのだろう。会合やインタビューの予定、大会社の名前が書かれていた。事故のあった27日の予定は夕方まで埋まっており、28日目は空欄……。

 事故の現場は、ひっそりとした場所だった。半径約2キロには、廃れた村がある。いまは年老いた老女だけが住んでいる。彼女ははっきりと轟音を聞いた。

 これから書くことは、残念ながらまだ混乱している。

 事件の後、彼女のところに親族が来ていた。私は彼らに椅子へ座ってもらった。そこにはパンと茹でたジャガイモが有った。貧困である。隣には鉄道用変電所があった。その変電所には事故の夕方、隣人たるセルゲイ・ヴァシリエフが任務についていた。彼は21時35分に、爆発のような轟音を聞いたと語った。

 「初めは鉄道が電気変圧線の支柱が折れたのだと思いました。しかし、走り出たとき何が起こったか分かったんです。変電所から鉄道の運行管理者に、電話で〈至急〉と呼び掛けました。最初の救急車が1時間半後に来るまで、ほとんどすべての被害者は、変電所の建物に運ばれたので、変電所は最初の救急治療場所になりました。被害者はたくさんいました。血とうめき声。私はただ、その大混乱の中で誰か電流で死んでしまわないかをとても心配になり、電流を遮断しました」

 取調官はセルゲイをまだ尋問していない。

 この近くには、彼と2日交代制の変電所従業員、そして近くに住む例の老女しかいない。そして彼ら部外者や不審者を見なかった。爆発地点には、迷彩服を着たグループが、カラシニコフ銃を持ったスナイパー、おそらくは特殊部隊〈スペツナズ〉とともに立っていた。彼らは何か議論し、森の方を見て、それから線路の土手を降りて査察に戻った。事件のあと早くもそのグループが来ていたのは興味深い事実だ。

 なぜその場所には工兵がいなかったのか、あたかも2つ目の爆弾が破裂するのを許すかのように。その原因にはたくさんの疑問があるものの、その爆発があったことはまぎれもない事実だ。2つ目の破裂が予期されていた事は、司法機関により肯定されている。爆弾は最初の爆発地点から近いところにあって、携帯電話の電波を使って作動させる事ができた。

 二つ目の爆弾は、知事に属する調査委員会のアレクサンドル・バストルイキン委員長が来た時、28日のおよそ14時にその場所で爆発した。それは事件後約16時間を過ぎて、まだそこにまだ、当局幹部を待ち伏せるテロリストがいたという事だろうか。それとも、爆発すべきときに爆発しなかったのか。爆弾は変電所の電信柱の1本の方にあったそうだ。

 脱線した列車の脇で、3本の支柱が折れた。(そんなに爆発力があるのなら)何の為に電信柱に爆弾が仕掛けられていたのだろうか。犯人は、事件の後になっても、二つ目の爆弾が無傷で残ることを信じていたのか。

 それとも、線路が破壊された後で2つ目の爆弾を置いたのか。それなら、爆破犯はどこに隠れていて、いつ現場に戻ったのか。不可思議にも、委員長の近くにいた誰かが、爆破犯を導いたのだろうか。

 そこに来た救急隊や医師が、できるだけ可能な限り早く働いた事だけははっきりしている。彼らは何をすべきか知っており、彼らのおかげで多くの命が助かった。しかし私は、草や木の生い茂ったぬかるみの道の代わりに、まともな道路が有りさえすれば、はるかに多くの人が助かったかもしれない、と思う。

 調査委員会の指揮官だけがヘリコプターで飛んでくるのでなく、救急隊員もそんな手段を持っていたなら。もし病院が、更新されない古い設備のままでなく、医療品があったなら。

 そもそも、なぜその列車の切符はボロガの病院の看護師の給料よりも高いのか。誰も教えてくれはしない。

 理解しがたいことばかりだ。壊れた鉄道の線路は、夜を徹して復旧され、朝にはそのことが吹聴された。その一方で、ぬかるみの道路が整備される見通しはない。いつも、特急列車は豊かな世界から別の世界へ走り抜けていく。

 だがその悲劇は、一日先も見えないような貧民が、実は、あらゆる爆発にも屈せず、力を持った人たちを上回る粘り強さを持っていることを教えようとしている。

事件現場より ロマン・アニン記者

原文(ノーヴァヤ・ガゼータ 12月2日付け記事)
http://novayagazeta.ru/data/2009/134/00.html