大前研一「ロシア・ショック」

ロシア・ショック

ロシア・ショック

 経済危機直後に出た痛い本。

 著者によると「ロシア・ショック」というのは、「プーチンが2020年までロシアの権力者として、〈強いロシア〉の復権を目指して君臨する」ことによる大きな衝撃だという。定義からしてわかりにくいがそこはいじらない。著者は「せっかくプーチンが日本大好きと言ってくれているのに、日本がそのチャンスをフイにしている」と論じる。北方領土返還にこだわりすぎて平和条約を結んでいないのが問題なのだそうである。それって日本側だけの問題だったか。

 チェチェンについては、こう書かれている。

 ほとんどの日本人は「チェチェンみたいな小さなところは独立させてやってもいいじゃないか」と思っているかもしれない。だが、プーチンチェチェンの独立を認めないのは、そこに多くのロシア人が入植しているという複雑な事情があるからだ。チェチェンが独立すれば、そこにいるロシア人が虐殺されたりひどい目にあうかもしれない。チェチェンを押さえ込んでいるがゆえに、時々テロ事件が起こり、ロシア人は恐ろしい目にあう。しかしチェチェンの独立を簡単に認めてしまえば、チェチェンにいるロシア人を守る気もないのかと思われ、「プーチンはロシア人を見殺しにした」と国民に言われてしまう。(194p)

 ええと、それはない。

 まず、1989年の統計では、チェチェン・イングーシの人口127万人中、29万人(23%)がロシア人とされているが、その後ほとんどのロシア人はチェチェンを去った。

 自分の意志でチェチェンに残ったロシア人もいた。しかしエリツィン時代の1994年にロシア軍が侵攻したとき、ロシアの爆撃機はロシア人の上にも平等に爆弾を落とし、同じように銃で脅した。チェチェンにいるロシア人をひどい目にあわせていたのは、当のロシア政府・軍である。この構図は1999年からの第二次チェチェン戦争でも変わらない。だからもっと直接的な意味で、「プーチンはロシア人を殺した」。

 89年以降、信頼できる統計はない。だからといって20年前の統計で現在を語るのは無理だ。チェチェン関係の資料を少しあたってみれば、こういう記述にはならないだろう。

 プーチンが苦しんだのは、その昔、ソ連が入植という誤った政策によって歪んだ構造を作ってしまったからだ。この問題はそのまま、今、メドヴェージェフに引き継がれている。ロシア人をシベリアに永住させ、さらに「ここが重要だ」という場所が出てくると、今度はシベリアからオセチアに、あるいはチェチェンに入植させた。カザフスタンにも、ウクライナにも、エストニアにもロシア人を入植させた。ーープーチンはいわばスターリン以降のソ連時代のツケを支払わされていたわけで、同情したくなる点もないわけではない。(195p)

 チェチェンに対するロシアの支配は帝政時代に遡る。ロシアによって完全に支配されたのは19世紀の話なので、まだソ連はない。大前氏の頭の中ではプーチンがこの問題の解決に悩まされたように見えているようだが、チェチェン人もロシア人も同時に空爆で殺していき、モスクワ劇場占拠事件では人質が建物内にいるにも関わらず毒ガスを注入して数百人を殺害した彼が、民族問題の解決のために苦悩したり、努力したとは言いにくいだろう。あえて言うなら、ユダヤ人を抹殺することを「最終的解決」としたナチスの方が近い。

 しかしこういうタイプの記述は、なぜか軍事侵攻の命令を下した人物を過去の既成事実を使って免罪するばかりか、「悩める指導者」にまで持ち上げてしまうのだからたちが悪い。

 とまあ、そういう本が出ていたよという報告です。2008年11月刊。(大富亮)

田原総一朗/佐藤優「第三次世界大戦」

第三次世界大戦 新・帝国主義でこうなる!

第三次世界大戦 新・帝国主義でこうなる!

 次は佐藤優氏。

 「インテリを戦略的に優遇し、懐柔するプーチン」という小見出しについで、こういう下りがあります。

 田原 モスクワで殺された女性記者がいたでしょう。
 佐藤 アンナ・ポリトコフスカヤ。私は彼女にあまり同情していません。彼女は日本で言えば実話誌の記者で、マフィア抗争に深入りしすぎた。NHK出版から『プーチニズム 報道されないロシアの現実』という本が出ているけど、タイトルがインチキ。全部ロシアの新聞の翻訳ですからね。プーチンについても、人間のクズで血塗られた男だと、形容詞のいっぱい付いた読むに堪えない文章を書き散らした。あの政権批判は、中核派の『前進』や革マル派の『解放』のトーン。人気もないです。読んでつまらないんだもの。(132p)

 なんとまあ、主観的な批判だろうか。

 『プーチニズム』は、アンナがロシア各地を歩いて取材したものを、政権・社会の腐敗に対する批判と、時には彼女自身に対しても向けられる厳しい視線も交えてつづられた本で、決して読後感の軽い本ではない。

 この本に所収された文章が、たとえば彼女が所属していたノーヴァヤ・ガゼータ紙で発表されていたとしても、それをもって「すでにロシアの新聞に載ったのだから〈報道されない現実〉ではない」というのは、ためにする議論というものだろう。実際、ノーヴァヤ・ガゼータはモスクワで十万部前後が出ているだけで、サンクトでは販売所すらもないし、この本もロシアでは出版されず、原著が英語版だ。

 その後の中核派革マル派云々は、無関係なものを持ち出したレッテル張り以外の何者でもない。主観的な文章に「主観的だ」と指摘しなければならないのは残念だし、下品な文章を「下品だ」と書くのは、自分をわざわざ低レベルの争いに落とすようで気が引ける。が、読むに堪えないのはこの本である。

 さらに佐藤氏は続ける。

 佐藤 (ポリトコフスカヤの死は)マフィア間抗争の犠牲者と私は見ています。プーチンはあの記者を、バカにしていましたけど、大切にもしていました。意図的に彼女に書かせていたんです。こんなめちゃくちゃなことだって書けるから言論の自由がある、と弁解するために。ポリトコフスカヤが有名になったわけは、こんなひどい記事が出たと大統領府が配ったから。それでも自由にさせているよ、と宣伝するためですよ。

 田原 じゃあプーチンは彼女を守らなきゃ。なぜマフィアに殺されるままにしたんですか?

 佐藤 守れないような抗争に巻き込まれたんでしょう。彼女はチェチェン独立派寄りの記事を書いていたけど、チェチェンの人権報道はマフィア利権とからむんです。軍が関与できない地域はマフィアが仕切って、石油の輸出とかやりたい放題。その場所で取材するわけですからね。ロシア人もそこはわかって記事を読む。もちろんマフィアが記者を殺すことはよくないし、彼女のようなもの書きも出てこないといけないと思っている。しかし、プーチンが殺したという点に関しては、ほとんどみんな懐疑的です。

 佐藤氏の言説の中でチェチェンの背景が説明されるとき、歴史的経緯(ロシアによるチェチェン侵略の歴史)は省略される代わりに、なんの典拠もなくチェチェンマフィアや、国際テロとのつながりなどが語られ、読者をミスリードしようとしているように読める。

 ここでは、「アンナはプーチン政権ではなく、マフィアに殺された」というものだが、ではどんなマフィアに殺されたか、情報源は何かというような説明はない。おなじように根拠なく、「プーチンはアンナを大切にしていた」とまで言い、あくまで政権は暗殺に関与していないという印象を読者に持たせようとするのである。

 けれどもこのレトリックは自己撞着している。ソ連時代にも、「ノーヴォエ・ブレーミヤ」誌では比較的自由な論陣が張られ、外国でも読むことができたのだが、これこそ「自由な報道もある」という弁解のためだった。そのソ連時代に言論の自由があったなら、アンナが「大切にされていた」新生ロシアにも言論の自由はあったことになろう。すべてはアンナの死によって空しい言葉遊びになってしまったが。

 2000年代、チェチェン戦争を進めるプーチン体制のもとで数十人のジャーナリストが殺害され、当局がおざなりな捜査しかしないために、犯人は一人も検挙されていない。ロシア政府が殺害に関与した証拠はまだ立証されていないかもしれないが、事態を放置していることだけでも、十分に重い責任がロシア政府にはある。

 佐藤氏は、リトヴィネンコ暗殺にロシアは関わっていないという見解を披露した上で、こう言う。

 そのあたりの話は、リトビネンコ事件の1年ほど前にロシアで封切られた映画『大統領のカウントダウン』に全部描かれています。ロシアでは700〜800万人が見たアクション映画で、日本でも公開され、DVDになっている。ポクロフスキーという名のベレゾフスキーらしき金融資本家、リトビネンコなんかに該当するチェチェン系とつながった元情報機関員、連邦保安庁のヒーローなんかが出てきて、ロシアの政治の構造はこうなっているとよくわかる。2時間ぐらいで観ますと、ロシア側から見たチェチェン問題、財閥問題、マフィア問題などがだいたいわかります。ロシアに興味がある人にはお勧めのDVDですよ。(134p)

 ・・・よりによって、のトンデモ映画である。くわしい解説は、以前チェチェンニュースで試みたので、そちらを読んで欲しいのだが、娯楽映画としての面白さはあまり期待しない方がよいだろう。ただ、ロシア政府、とくに軍や連邦保安庁チェチェン問題をどうプロパガンダしたいかは伝わってくる作品なので、私も佐藤氏とは別の意味で「よくわかる」からお勧めの映画ではある。チェチェン人の描き方の粗雑さをはじめとして、実に手前勝手な作品である。

映画「大統領のカウントダウン」 または、笑えるプロパガンダ
http://chechennews.org/chn/0608.htm

 とりあえずこの「第3次世界大戦」の中では、ロシアのまわりで反抗すれば、すべて「バカなことを」する国ということになる。そういう本だ。

鈴木宗男/佐藤優 「北方領土『特命交渉』」

北方領土「特命交渉」

北方領土「特命交渉」

 思うところあって、チェチェン専門書以外の本でチェチェンについて書いてあったら書評してみる。強調はいずれも筆者(大富)。

 この本の「外務省の暴走」という見出しの下に、鈴木宗男氏のこういう発言があった。

 ちょうど同じ時期(99年9月)、G8外相会議でアメリカやイギリスが中心になって、人権問題でロシアを叩こうという動きがあった。外務省は、河野(洋平)さんという人権派の政治家が外相になったのをいいことに、この動きに同調しようとした。しかし、日本は、橋本龍太郎小渕恵三という二人の内閣総理大臣が、「チェチェン問題はロシアの国内問題であり、ロシアが解決すべき問題だ」と明言しているのです。
 そのような経緯があるにもかかわらず、アメリカ、イギリスのお先棒を担いでロシアを叩くというのは、内閣総理大臣が定めた日本政府の方針を無視した暴走でしかありません。
 ーー私が間違っていたとは思っていません。国際テロの脅威と闘っているというロシアの主張には客観的根拠がありました。(p120)

 ・・・というわけで、鈴木氏はこの動きの張本人であった竹内行夫総合政策局長(当時)に「厳しく問いただし」たのだという。それで恨みを買って云々、とこのしょうもない話はつづくわけだが、99年というのは、チェチェン戦争がもっとも激しかった時、というより、一方的なロシア軍の空爆で一般市民の上に爆弾がどんどこどんどこ落とされていた時期である。(もちろん、といっては悲しいが、「客観的根拠」は書かれていない)

 その時期に、出所不明の「国際テロの脅威」とチェチェンを勝手に結びつけて、西側諸国としてのロシア非難決議への参加をやめさせたことが、お手柄話として語られるところに、この人たちの凄さというか、凄いズレがある。

 チェチェンの人々の受難は、あるいは戦争に巻き込まれて死んでしまうロシアの人々のそれも含めて、みんな私たちーー日本やその他の国で暮らす私たちの生活の延長線上にあるのではないかと、ときどき思う。関心をもたず、あるいはその無関心と引きかえに何か成果を得ようとする卑屈な官僚や政治家を許している私たちの生活に、たとえば。

 佐藤氏はこう言う。「チェチェンー国際テロリズム」の関係を理解することが、北方領土交渉に深く関わっていて、理解できていなければ「頓挫する可能性があった」と。チェチェン問題を人権問題としてロシアに言い立てれば、島は帰ってこないという意味だろう。ふーんそうか。結局日本は非難声明に加わらなかったわけだが、一つでも島が帰ってきたろうか? チェチェン人20万人の死と引きかえに北方領土が帰ってくることを、私たちは望んでいたのだろうか? 

 いいや、それらはまったく別の問題だったのだ。しかしロシア側は日本の対外政策を御して自国の評判を下げないために、「チェチェン北方領土は関係している」と示唆してきて、それに乗ってしまった人々がいたのだ。ちょうどこの本の著者たちのように。

 しかしこの本をあるレベルで信じてみるとすると、興味深いことがいろいろ書かれている。

 佐藤 外務省にあきれてしまったのは、「これ(モスクワアパート爆破事件)はエリツィン政権を浮揚させるための自作自演だ」という人たちがいたことです。(p228)

 へえ、なかなか見識がある人がいたんだな・・・。

 ロシア政府がチェチェンとの戦争に突入するために自国民を殺したという話は、始めて聞いた人にはショッキングかもしれないが、ありうることだ。傍証として、連続爆破事件が続いていた時期に情報機関が地方都市の集合住宅に爆弾を仕掛けて、それが不発のままで地元の警察に発見され、押収されて数日後、「あれは訓練だった。爆薬ではなくて砂糖だ」と不可解な発表をした「リャザン事件」がある。

 爆薬を鑑定した技師や、逃走する情報機関員の電話連絡を傍受した電話局員の証言も収録された、この本(↓)は絶対に買いだ。

ロシア闇の戦争―プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く

ロシア闇の戦争―プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く

  • 作者: アレクサンドル・リトヴィネンコ,ユーリー・フェリシチンスキー,中澤孝之
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/06
  • メディア: 単行本
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 結局日本政府の見解としては、「チェチェン問題はロシアの国内問題だ」という線に落ち着いたと記憶している。これは、DVなり、児童虐待が起こっていると分かり切っている家庭の様子を知りながら、「その家の問題だから」と何の手出しもしないことにしたご近所や警察、児童相談所があると考えればわかりやすい。

 99年の日本とは、そういう場所だったということだ。そしてもしかしたら、今も。

プーチン政権の闇―チェチェン戦争/独裁/要人暗殺

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