ロシア的ジャーナリスト・アーニャ

アンナ・ポリトコフスカヤ追悼文集「何の咎で?」より

ゾーヤ・エロショク「ノーヴァヤ・ガゼータ」論説員

私たちはとくに仲良しだったわけではない。
でも、話し込むと長かった。それはいつも彼女が出張から戻った時だった。その時記事にしようとしている人たちのことを話してくれた。とても詳しく、気持ちを抑えて。彼女の仕事部屋は、全国の人のための社会福祉事務所の受付のようだった。そこにはいつも何かの不幸に陥ってしまった人が来ていた。何時間でもその話を聞き、なんとかしてその災難から引っ張り出そうとし、もとの道に立ち戻らせようとした。
 編集部では仕事をしている彼女しか見たことがない。ただ誰かとおしゃべりしながらコーヒーを飲んでいるというのは一度もなかった。 
 アーニャは誠実で、純粋で、恐れを知らないジャーナリストだった。まったく無私無欲で、独創的だった。7年間ノーヴァヤ・ガゼータで仕事をして、500本以上の記事が掲載された。そのうち40以上の記事が、刑事事件の摘発や調査のきっかけとなった。アンナの書く言葉の語順には独特の陰影が感じられる。おそらく力を持っているからだ。救済の力あるいは告発の力を──どちらかというと救済の力だったろう。内容が非常事態的であってもだ。
 というのも、アーニャは誰のために書いているか、何について書いているのかを忘れることがなかったからだ。
 アーニャ・ポリトコフスカヤとは──「神経を自衛していない」ジャーナリストだった。複雑で、重い責任のある場面でも。はっきりと物をいい、明快に表現するジャーナリストだった。軽量級の戦いに酔いしれたり、戦闘の準備に喜ぶなどということとは無縁。むしろ、戦いは避けられないということを、悲劇的ながら自覚しているという風だった。
 アーニャはチェチェンのことをたくさん書いていた。しかしそのテーマは、ただ人々と、その命、生きていることそのものだったのだと思う。この愛すべき祖国では、暴力に無抵抗なおとなしい人々に対してすら、そうしたテーマとして選ぶことはなくなっている。そんな人たちだって生きているのだが、まるで物のように扱われている。人々がそれを受け入れても、アーニャは決して受け入れない。
 カルジャーヴィンにこんな言葉がある。「全体の幸福のために、誰を犠牲にするかの気違いじみた競争がある」。この国でもそんな競争の時代があった。これは呪いだった。まさにパステルナーク風に。
 「私はあわれな者たちにいつも取りいろうとしていた‥‥しかし、呪いが時間に触れ、悲しみを恥辱にしてしまったとき、小市民や楽観主義者たちのふりをしたとき以来、私は堕落してしまった」
 楽観主義のふりをする、というのは どんなに他人の不幸を見ても無条件にいつも変わらず元気でいるということだ。誰がそんなふうに生きることができようか?
 もちろん私たちはみな神の前で普通の人、どんな非凡な人でも、同じことだ。
 アーニャの場合、奇をてらったところはまったくなかった。自分への忠誠というようなものを求めなかった。芯から誠実な人だった。安っぽいセンチメンタルも甘ったるさもなし。情をかけてはいけない人たちとか、使い捨ての人たちがいるなどということは、決して受け入れられなかった。国民の名において国民が殺されるような時に、「言葉を濁して黙りがちになる」人々と、アーニャは一線を画していた。
 アーニャの悪に対する抵抗の特徴は、オープンであることだった。彼女の、悪に対する憎悪も、善にたいする愛情も等しくオープンなものだった。そして、極悪非道な人々に妥協することを、決してしなかった。
 人々を結ぶ人間関係が崩れてしまっていることで悲しんでいた。国民が民族性によって分断されていることを。また、金持ちと貧乏人に分かれていることを。
 アーニャは、ジャーナリストが百人いても手に余るような重荷を背負っていた。現実によって彼女はだんだん断固とした人間になった。巧みに、効果的に仕事ができるようになった。いつでも人々の側に立って。もっとも無防備で、忘れられた人たちの側に。
 アーニャはインテリには人気がなかった。インテリもアーニャの偶像ではない。普通の人たちが新しいロシアの現実<-- (決して貧しいわけではない) -->に溶け込めなかったことについて、アンナは権力を批判した。権力だけでなく、連帯することぐらいしかできない人たちも責めた。
 しかし、そのほんのわずかなこと、連帯というような事ですら(ほとんどすべての)国民はインテリたちに期待できなかった。国民はだれにも気づかれない存在のままだった。コルジャヴィンはその人たちのことを「われわれの同情の外にある」と表現した。
 アーニャは「社会正義」のデマゴギーと戦った。彼女は知っていた。正義は確立されるものでも復旧もされるものでもなく、築き上げるものなのだということを。彼女はそれをやっていた。ときにはまったく孤立無援で。満腹した清潔なエリートの間で身をよじりながら。
 アーニャはみずから勝ち取った陣地で働いていた。あらゆる人たちから独立して。しかし、理解を求めていた。せめて、間違った理解でも。
 誰かの言うことを、自分の発言で黙らせるようなことは決してせず、みんながお互いの言うことに耳を傾けるよう呼びかけた。どのようにして、どこに皆の共有できることの基準を見つけたらいいのか、個人の絶対性の限度をどう見つけたらいいのか悩んでいた。
 アーニャはとてもロシア的なジャーナリストだった。このごろインチキ愛国者たちが、アンナが持つアメリカ国籍のことを、悪意に満ちた口調であげつらったりする。彼らにとって、アンナが外交官の娘としてアメリカで生まれたことがまったく受け入れがたいことなのだ。私はだれと言い争うつもりもない。ただアーニャはロシアを愛していたとだけ言っておきたい。ロシアは彼女の命だった。愛国心とは愛のことだ。民族主義的なエゴイズムではない。自己主張の方法でもない。人がアーニャが亡命を勧めたとき、彼女は「私はまだ『ノーヴァヤ・ガゼータ』に必要なの」と答えた。
 あるときアーニャは、自分の書いた小さな記事のことを話してくれた。
 チェチェンのある家族のことだ。ある晩、軍服を着た連中がやってきて、16歳の息子を連行した。両親はその子を長いこと捜索したが、見つけられなかった。その後この家が爆撃を受けた。両親は逃げ出してロシア中部をさまよった。どこかの建物の地下室などに住み、何もかもなくなった。家族の写真さえもなくなってしまった。
 そして、アーニャのところに息子のことを話しに来た。息子がどんな子供で、何がすきだったか、どんな本を読んでいたか、どんな風ににっこりしたかを。
 アーニャはそのすべてを記事に書いた。その後、またふたりがやってきた。お礼を言いに来たのだ。息子のもので残されたのは、アーニャが書いた小さな記事だけだから。その記事は今、額に入れて飾ってある。「何でもいいから残すことが大事なんだ、新聞紙でさえいい。」と二人はアーニャに言った。
 アーニャは自分の義務以上のことを果たしていた。