ベスラン事件、そのときイズベスチアは (抄)

ウラジーミル・カラムルザ ラジオ・リバティー
http://www.svobodanews.ru/content/transcript/1812985.html

インタビュアー(カラムルザ):──2004年9月1日、北オセチア共和国ベスランの第一初等中等学校がテロリストに占拠された。ロシアの歴史始まって以来の大テロ事件だった。教師、学童、父兄──全部で1200以上が人質になった。しかしこの事件は、真相が誰にも伝わらないように仕組まれていた。
 報道関係者は、いわゆる「作戦本部経由の情報」しか使ってはならないとされ、人質の人数は少なく、テロリストの要求は何もないなど、嘘の報道が全世界に流された。占拠された学校への突撃開始を最初に報じたのは海外のメディアだった。
 3日間の間、学校には地雷がしかけられたままで、9月3日に突撃が開始された。その結果330人が死亡、うち子どもは180人。その直後にプーチン大統領は、州知事を選挙で選出する制度を廃止し、任命制にすると発表。これを、テロの脅威に効果的に対処するためと説明した。ロシアのメディアがこの悲劇を報道するのがむずかしかったのかどうかを、訊いてみたい。ノーヴォエ・イズベスチヤとコメルサントの元編集長、ラフ・シャキロフ、 “Dailyonline.ru”の現編集長でもある。ベスランの悲劇が始まったときの御社の対応は?

シャキロフ:報道という点からいうと、我が社はついていた。あの前夜にモスクワの地下鉄でも爆破事件があった、イズベスチヤのレチカロフ論説員はチェチェンに行っていた、モスクワにいる自爆テロ犯の女たちが誰でどういう人物か写真を持って行って取材しようとしてだった。まだ爆破事件が起きる前に 新聞の一面に載せて、彼らがどういう使命を帯びているかを書いた。するとFSBの広報から電話があり、モスクワ市民をいたずらに怖がらせることはない、と非難された。その2日後に地下鉄事件だった。その犯人たちは 我々の新聞の一面に載っていた女性たちだった。あの事件が起きたとき、我が社のレチカロフ記者がチェチェンに居たので直ちに現地に向かった。非常線がはられていても そこのすぐそばにいたわけで、そのあとほかの仕事でグルジアに行っていた我が社の女性記者もすべてほうりだして現地に行った。他社よりずっと早くベスランに居て3人の記者が人質の人数を知らせた。きわめて単純にこういう学校の生徒は何人だというところから算出した。レチカロフは 解放された人質の一人にインタビューすることができたが、それはその場だから言ったことで、その後人質は物を言うのをやめた。それにしても 初めて記事が載ったのはイズベスチヤの一面、人質の正確な人数も入っていた。クレムリンは当時 その10分の1の人数と発表していた。
ユーリヤ・ラティニナ、ノーヴァヤ・ガゼータやエコー・モスクワの論説員:プーチン大統領はソチから戻るところで飛行機でナリチクの学校の開校式に向かおうとしていた、ナリチクはベスランから遠くない。それなのに彼はベスランに向かわず、飛行機の向きを変えてモスクワへ行ってしまった。これは ベスランについて何の決断もしない という決断だった。プーチンにならって下っ端のボスたちも皆それぞれの小型機の向きを変えてしまった。プーチン大統領はやってこないが、マスハードフ大統領がやってくる、彼はそっぽを向かず、ベスランに来る用意があるとわかったとき、これに対してどうにかしなければならなくなった。そこで、ちょうどタイミング良く、爆発が起き、これは テロリストが自爆したのだと皆言った。わたしたちは皆 テロリストは人間ではないということを受け入れていたからだが、今は これが テロリストがあちこちにぶら下げた爆弾が爆発したのではなかったらしい。
 報道が難しかったか? もちろん 自爆テロの女性たちについての記事にたいして いたずらに社会不安をあおってはいけないと警告されてから、次の警告はベスランの学校占拠直後の この事件は「平静」に報道しなければならないというもの。「平静」な報道とはどういうものか あのころの新聞を見ればわかる。 「ラシースカヤ・ガゼータ」ではこの事件は文化行事などと一緒に扱われていて、何事もない日常が続いているという風だったし、天気予報などと同じ扱い。あたりまえの報道関係者なら テレビで流れていることが厚顔無恥な嘘ばかりだということはすぐにわかっていた。我々がテレビで見たことさえ 隠そうとしていた。NTVではあまりにしゃべりすぎたアナウンサーが交代させられた。ほかのアナウンサーが入り自社のほかの記者たちが報道をしようとする口を封じようとした。たとえば「今の段階で推定される犠牲者の数は」と言いかけるとアナウンサーがこれを遮って「われわれは犠牲者の正確な人数はわかりません」とたたみかけて現地からのレポートを終わらせてしまった。われわれは軍隊の訓練とか受けたことがあるから戦車が撃っていたらどんな音かは知っている。記者たちは異口同音に「あ、擲弾筒が発射されました!」と言うけど、擲弾筒の音と戦車の音を取り違えることなんかできない。つまり すべては嘘ばっかりだった。
ヤコフ(イズヴェスチヤ編集長):ベスラン事件後の5年間について言えば何も明らかになっていない。なぜあれが起きたのか? 突撃は正しかったのか?解放や子供たちの救出のやり方は正しかったか?何も。この事件の調査のことを世論に忘れさせ、これが 客観的に報じられたかなど忘れさせることだけが成功している。残念ながら これに関して メディアはあまり良い役を演じていない。大部分は事件のことも忘れてしまい 文字通り一部の報道機関だけが 徹底的に調査をおこない社会に情報を与えようとしている。しかし、「ノーヴァヤ・ガゼータ」のような新聞の部数は圧倒的に少ない。この悲劇の規模はあまりに大きいので政権が変わればこの事件の真相に迫ることはできるだろう。まだ あきらかにされていない真相が 表に出るだろう。

視聴者からの質問:今ロシアのテレビが流すベスランについて あるいはツヒンバリについてのレポートというのは どうにもならない嘘八百。われわれがジャングルに住んでいて何もわからないとでもいうのか?その一方でCNNを見てやっと真実がわかる。俺の質問はこういうばかげたプロパガンダをなんで 現場からの中継です なんて言うんだ?
シャキーロフ:名前は言わないがたとえば オセチアの戦争を報道して 褒賞を受けている連中がいる、軍の降下部隊と話をつけてあって弾丸は後ろを飛ぶようにしてもらい、まったく心配なく現地ルポをやっている連中が。そういう報道関係者はいたしこれからも居て、残念ながらそういう連中が生き残る。まったく現地ルポなどではなく 報道のまねごとにすぎない。
ユーリー・イワノフ弁護士(下院のベスラン事件調査委員会メンバー): この委員会は21人のメンバーからなる、サベリエフ教授、元弁護士イワノフ、の二人だけは 公式見解にサインすることを拒否。しかし、この委員会で こういう見解でいけという制限があったわけではない。サベリエフ教授は本を書いたし、わたしも サヴェツカヤ・ラシヤ紙に大きな記事を書いて自分の意見を述べた。公式見解との違いは単純なことだ。 つまり、 暴発などなかったということ。最初の爆発が起きたのは 治安機関の側の行動によってであったと言うのがわたしの見解。そして取り締まり側に指示をできたのはプーチン大統領以外にないということ。そこで 突撃が始まり、きわめて強行なやり方だった、そのために一般市民の犠牲が大きくなり、突撃隊の犠牲も多くなった。占拠されていた室内の掃討作戦が行われた、「アルファ」の隊員は弾丸の雨の中を進軍させられそのために特殊部隊の犠牲がおおくなった。
──トルシン委員会に証人として報道関係者は呼ばれなかったのか?
シャリコフ ジャーナリストは 誰もよばれていない。ただ、ヤーコフ氏も言っているように、「ノーヴァヤ・ガゼータ」やコメルサントも 裁判をフォローしていた。もし今トルシン委員会での聞き取りやその後のことに裁判を公表したら、ショッキングな文書ができあがるだろう、あまりにリアリティからかけ離れているからだ。「攻撃は戦車をつかって後方から行われ、その戦車が武装勢力に放火された。建物の中では火炎放射器を使って戦闘が進んでいた。その時我々はこういう詳細を知らなかった。しかし、 この突撃はまさに我々がレポートしていたあの内容だった。 犠牲者の遺体を連れ帰ろうとしていた非常事態省軍の将校たちをかばおうとする陽動作戦、まさにそのとき爆破が起きた。まさに そのとき特殊部隊「ヴィンペル」の将校たちによって銃撃が始まった。これは我が社の記者が目撃している。その後将校が駆け込み、銃撃は一瞬やんだ、パニック状態が起きてしまったからだ。十時砲火を浴びてしまった者もいる。こういう詳細のすべてを明らかにしたら、あのときの作戦が みのけもよだつようなものだったことがわかる。非常線なんぞなかったし、偵察なんか行われなかったし、なにもかも一度にぐしゃぐしゃに起きたことが。そして、もちろんそういう痕跡のすべては消し去ったのだ。すでに周知のことで 人質の一部が 共和国の指導部も認めたことだが、事件のあと モズドクで見つかった。つまり、テロリストが全員殲滅されたわけではなかったわけだ。人質の一部をつれて逃げたということだ。 人質が自分の家にもどることなく、自力でモズドクにたどりつくなど考えられない、それなのに モズドクで発見されたのだ。 公開されている情報からこぼれだすこういう細かいことすべてから作戦がどれだけ不備なものだったかわかる。彼らは夜中にでることができ、屋根には狙撃兵が配置されていた。というような作戦が巧みであったことを語る詳細はあきれるばかりだ。テロ事件の教訓 として ああ、われわれの仲間が殺された、作戦で若者たちが死んでしまったなどというが、もちろん、遺族に哀悼の意を表するが、しかし、その若者たちを死なせた指導者はどうなんだ?我が国の特殊部隊の使命というのは敵を殲滅するこの一点だけだ、人々の命を救うというのは全然べつのこと。そういう命令なのだ「敵を殲滅せよ」。 ノルド・オストでもそうだった。特殊部隊と言ってもなにも特殊な専門のインフラがあるでなし、特殊な手段も訓練もない。電磁波だ、赤外線透視だといろいろな分野の最新兵器が開発されている国なのに。ところが、特殊部隊は 軍隊式の使命を帯び、通常軍の手段を使っていて、それは平和時に人質事件がおきた場合に使うやり方ではない。特殊作戦の方法はまったく別のものになるべきだ。 
――アンナ・ポリトコフスカヤが軍の飛行機で現地に向かって、着いたのはロストフの空港だった。リバティのバビツキー記者はヴヌーコヴォ空港で5日間拘留されていたんですよね。
視聴者 プーチンになってから起きているどのテロ事件でもプーチンは自分の目的に利用している。ついおととい、ビデオを見た。5年半まえのベスランの事件の半年前のNTBの放送だ、ルイシコフとヴェシュニャコフが選挙のことででている。ルイシュコフが言っている「あなたは我が国は4つの政党しかのこらないとどうしてそんなに確信を持っているのか」と。そして テロ事件の3日後にプーチンが突然言い出す、「こういう事態がおきたこともあり、‥‥を廃止する」とかなんとか。プーチンは「ノルド・オスト」にも、NTVにも襲いかかったのだ。彼らが見せてはならないものを見せてしまったからだ。「あなたは他人の血で自分の格付けをあげようとしているのだ」と語ったからだ。プーチンは子供たちを犠牲にしてテロ事件を利用している。 確信しているが、テロ事件の90%は特殊部隊がしくんでいて、そのことをプーチンは十分わかっている。
――武装勢力の数名は二重スパイだったという(つまり連邦側が送り込んだものだ)情報についてどう思うか?
シャキロフ それについては十分な裏付けはない。正直言って、ベスランについてはそういう仕組みがあったとは思えない。ただ権利に対する攻撃というのは前もって用意されていたものだ。イニシアチブをとらえる、ということに利用したのだ、今回のことだと、「イズヴェスチヤ」、「ノルド・オスト」ではNTBがやられた。
イーゴリ・チュバイス、民族友好大学ロシア研究センター長  いろいろなことが取り違えた混乱のままだ。あの悲劇的な日々、この事件は マスハードフが仕組んだものだと 言われてきたが、その後、明らかになったのはマスハードフは逆にベスランでテロリストを撲滅しようとしていたということだった。マスハードフはベスランに行くことを許可するように、 そこに行くことをじゃましないでくれと頼んでいたということ。 そのほか多くのことが明らかでなく、解明されず、究明されていない。

――あのとき アンナ・ポリトコフスカヤがザカーエフと話をつけようとしていたことや、アウシェフ大統領が幾人かの子供たちを学校から救い出したことについてわかっていることは?
シャキロフ:アウシェフとはまさに我が社の記者が遭遇した、それで 最初に解放されたひとたちのインタビューをとったのだ。 たしかに勇気のいる行為だった、それを隠すことはできなかった。しかし、その後だれも アウシェフと話そうとしなかった。ほかの多くのひとたちも子供たちを連れだそうとこころみていた。それがうまくいったひとは賞賛に値する。あのころまだ マスハードフとジャジコフやほかのリーダーたちが来ることを テロリストたちが 要求していることははっきりわかっていなかった、ジャジコフやそのほかの指導者たちは 自家用小型機を方向転換して逃げてしまった。一番驚くべき事は当局の誰一人このことの始末をつけようとしなかったことだ、だれも罰せられたものはいない、とばっちりをうけるのはいつもその役周りの小物ばかり。だれがあの作戦の命令を下したのか推定はできるが、実際に指揮したのが誰なのか、なぜ戦車を出したのか?なぜ、厳しい非常線なしで作戦を始めたのか?ノルド・オストのときと同じく、疑問はたくさん残っている。
 大事なのは ああいうことが二度と起こらないでほしいということだ。
 特殊部隊の青年たちが犠牲になった、というが、たまたま 編集長たちが クレムリンに呼ばれたとき「アルファ」グループが褒美をもらいに来たのを思い出す。偶然見かけたのだが 外はどしゃぶり、このひとたちは黒のスーツにネクタイの正装。それで爆発物検出のフレームを通る列に 土砂降りの雨のなかで並んでいる。英雄たちをこの扱いだ。もちろん、彼らはそうしろと教えられたとおりに任務を遂行した。それがどういうふうに行われたか ひどいものだったが、それはこの指揮官たち、政治的な指導部に問うべきだ。
 誰一人判断したり、決断を下したりしない、みな、モスクワからの指令待ち、モスクワは 結果を出せと催促するばかり。特殊手段をあたえるでもなし、偵察を行うチャンスを与えもしない、あるのは正面突破ばかり。残念ながらこれはエリツインのときもそういうことがあった。
シャキロフ  起きてしまったことだ というのもひとつの見解だろうが。そういうことがまた起きてしまうそのことが問題なのだ。そんなことは絶対許されてはならない。あの建物に入るために最初の爆破をしたのはだれだったのか?率直に言えばそれが問題なのではない。作戦がどのように進められたか?ということだ。たとえばそのための偵察が行われたか?なぜ、武装勢力は結局逃げることができたのか?なぜ、火炎放射器なんか使われたんだ? こういうことを誰も調べようとしない。特殊作戦用の武器や防護装置はどうなってるんだ?あのときに無かったというならしかたない、しかし、あれをひとつひとつ丁寧に分析して、今ならどのように できるということも何もない。たとえば 壁をぶちやぶるのに 爆破しなくたって 取り除く装置はある、高価なものかもしれないがまさに特務機関こそもっているものだろうし、そういうところは我が国に二つしかないんだから、国がきわめて特殊な装置を与えることだってできるはずだ。学校に突入した若者たちは 確実に死ぬことを知っての決死隊だった。彼らの勇気には ただ頭が下がるが、こういう軍事行動を指導するひとたちに訊きたい。

カリニングラードの視聴者から:こんばんは。わたしは、チェチェン戦争のあの猛烈なすさまじさをしらない者がやるように、自分の言葉を修正したり、抑えることができない。チェチェン連邦軍が行った獣のような行為を見た者として感情的にならないでいられない。だから遠慮なく言わせてもらう。ベスランの悲劇については、わたしは確信を持って言えるが、武装勢力が学校を占拠したということではない あれの原因はロシアの特務機関のしわざだ。 
シャキロフ:もう一度言わせてもらうが 今視聴者が言ったようなことの裏付けとなるデータはまったくわたしは持ち合わせていない。ちなみに あそこに居た、目撃者たちと話してみるともちろん事態は言われているようなことではなかった。もし あのたぐいの作戦を行おうとするならばおそらくあんな被害をださずにできたはずだ。重要なのは どういう目的で行われたのかということだ。あの事件に続いてとられた措置の数々は、ふつうの学童だってわかるが、ベスランにはまったく無関係のことだった。 地方行政の長を任命制にするなんて いったいテロ対策とどういう関係があるというのだ?まったく関係なしだ。
――「ベスランの真実」というサイトの編集長マリーナ・リトヴィノヴィチが、テロリストひとりひとりについて調べたことを「週間ブログ」に載せた、つまり誰があの事件までに何度特務機関に捕まったことがあるかということを。そのうちの数人が兄弟の葬儀のために監獄から出されていた。おそらく、いまの視聴者はこれを読んでいたのだろう。シャキロフ記者のかつての同僚であるイワン・エゴロフは「ガゼータ」の軍事記者だが、あの事件のころ現地に行っていた。



イワン・エゴロフ:あのとき一番むずかしかったのは情報をとることだった。9月1日の段階では公式情報はまったく何もなかった。誰がなんのためにどうして占拠したのか何もわからなかった。 当然、すべては現場で 調べるしかなかった。情報の伝達に関して言えばさいわいなことに なんの検閲もなく、どこにでも好きなところへ誰でも行くことができた。手榴弾がとんでくるところのすぐそばで学校のちかくに居られたら当然私はラジオに生放送を流せたし、人質の人数が300でなく、1000人近くの人が中にいることがわかった時にはそれも伝えられた。一番たいへんだったのはテレビ関係者で、広場に集まっていた人たちだ、そちらは公式のスポークスマンに何か言われていた。彼らはそれを放送させられていた、当然テレビカメラをもって 現場にもっと近づくなどできなかった。われわれラジオが居なかったら あの悲劇について国中のひとは全く真実を知ることはなかっただろう。
シャキロフ:わたしはイズベスチヤでほんとに自由に働かせてもらっていた、新聞内部ではまったく自由だった、クレムリンからの警告はあった、もっとおとなしくしろというような、でも 社内でああしろこうしろはまったくなし、自由だった。あの突撃があったときなんかまったく警告も指図もなにもなし、おそらく連中はほかのことで手一杯だったんだろう。自分が退社したということについてはもちろんこれと関係ありだ。社主と会って、生け贄が求められていると、それで わたしは編集部を後にする、すべてはわたしが責任をとる、とそういう形になった。もちろん、これは明らかなシグナルだった、たくさん記者は居た。地下鉄爆破事件もあったし、われわれが人質の人数を最初に知らせてしまったこともある、子供たちが特殊部隊の十時砲火に会ったなんてレポートは裏切り行為に等しかったんだろう。そんな情報はだれも訊きたくなかったんだろう。だれも隠さなかった「イズベスチヤ」は特別扱いなんだ、と。だからほかのメディアが怖がるように見せしめとしてやられたんだろう。もちろんこれは検閲だし、どこまでは許されるという限界を示している。ソ連時代とちがって今は内部検閲が働いていて、編集者の一人一人が何か載せる前に百回も考えなおしてみている。 そんなことをわたしはやりたくなかった。
――「ベスランの母たち」という団体に対してことしの春税務警察が私立学校「コラロヴォ」での教育費を告訴しようとしたことについてどう思うか?
シャリコフ:まず、裁判のはじめの頃に当局はメディア対策をどうしたらいいかを学んだ、「ベスランの母たち」は最初ひとつだったが それを分裂させることに成功した。それからきたないやり方が始まった、中傷だ、税務の違法行為などというのもプレッシャーだ。ベスランの子供たちがこの5年間どのように生きてきたか 今日サイトに載せるが、そこに裁判のエピソードがある、これはBBCの撮影したもの。まるでつかみ合いのけんかにならんばかりだった。というのも裁判ではあまりに平然と嘘が述べられていて、そんなものをあの悲劇を経験した者たちは耐え難かった。このベスランの母たちの裁判というのは挑発なんだ。子供たちを失った母親たちに耐えろなんてこの状況で言うのは無理だ。
――あのときのロシャリ医師の行動はおかしかった。ヌルパシ・クラーエフの裁判を皆でボイコットするように呼びかけてくださいと誰かに頼まれていた。
イワノフ:間違いなんかなにもなかった。当局の政策は敵に向けるかのように国民を標的にしていた。だからすべての手段が使われた、住宅爆破、潜水艦クルスク、いろいろなすべてのテロ事件、そして ベスランだ。だから、電力発電所の爆破に際してジャーナリストが生き残った人たちを救えと問題提起したら、そのジャーナリストが訴えられた。
シャキロフ:この5年間を総括して権力は報道に対してはもっと締め付けるべきだと結論している。情報に関してはより多くを隠すように、圧力をかけることに関しては、もっと早い段階で、新聞が出る前に真実を語ろうとするものに。 今、の視聴者が サヤナ・シュセンスク水発電所の例をあげたのは いい例だ。最初にわれわれのインターネットサイトの編集長が出した結論が 今追認されている。シュセンスク水発電所についてはただちに4つの委員会が作られた、ベスランのときは トルシン委員会ひとつだった。つまりこれが彼らの結論だ。 4つの委員会をつくる。主要な委員会の議長はセーチンが握る。それなのにもっとも大事なこと サヤナ・シュセンスク水発電所の復旧をどうするか?というもっとも大事な問題は誰も提起しない、誰の責任なのか?どういうことがどういう原因で起きたのか、今後繰り返さないためにどうしたらいいのか?世の中が関心をもっていることについては誰も関わろうとしない。」ドイツでは ナチズムを精算した。これは外からの強制であったが。 我々はKGBを追い出すということをしていない。みなそのままの地位を失っていない。われわれの おじいさんたちを銃殺した連中が 平然とそのまま老後を迎え高い年金をもらっている。残念ながら その調子で続くだけだ、我々自身がこの問題を解明しようとしない限り。




アレクサンドル・プロハーノフ(「ザーフトラ」という右翼的新聞の編集長で、ベスランのとき事件のあとで現場をおとずれている):そう、数年前にこの学校にいったのだが、あの悲しみ、苦しみは決して消えることがないと。始めの悲劇の上に第二の悲劇、第三、第四と重なっている。ああいう爆破事件はロシアでは今いくつも起きている。国全体が大きな墓になってしまった。誰も責任がない、どんなテロリストが我が国全体を爆破してしまったのだろうか?そういう疑問にたいしてわたしは答えを持っていない。もちろん 子供たちの父兄はこの先も長いこと委員会の結論に疑問を持ち続け、真実を求めるだろうし、リベラル派は連邦軍が最初の火ぶたを切ったのだと証明し続けるだろう。しかし、それが問題なんだろうか?そこにベスランの教訓があるのだろうか?ベスランの教訓というのは 子供たちがこれまでと同じく死んでいる、 事件の巻き添えになっている、国全体が血と戦争の渦のなかに沈んでいるというそのことだ。コーカサスはベスランが何十も何千も潜在している。つらい、恐ろしい、とても説明できないことだ。
シャキロフ:プロハーノフはお見事、イメージが豊かだ!たしかに「つらく、説明がつかない」。うまいことを言ったもんだ。 ただ 手術台についている医者からそんなせりふをききたくない。医者は正確に、プロとして行動すべきだ。間違いをおかしたなら それに対して責任をとるべきだ。「なんてことだ、この青年をわたしが手術しなくちゃならないなんて!国全体にヘキサゴンがしかけられている。だれがやったのか?わからない、なんで君が被害にあったのか、それもわからない。どうしたらいいんだ?それでおわり。 これはわれわれ皆の不幸だ。」なんてばかげた言いぐさだ! ちなみにプラハーノフ氏はこういう言い方での発言をじつに巧みに使いこなしている。話題を掴まえて裏返しにしてしまう。具体的な話しなんだ。何が「国全体が爆破されている」だ?ベスランのこどもたちがだ? そういうくりごとから何もでてきやしない。「母なる哀れなロシアのために悲しむ」?つまりだれにも責任はない。なにか外的な勢力が動いていて我々を動かしている、とそういう結論だ。これは 国の当局のプロパガンダの手口のひとつではある。プラハーノフ氏はそういう意味でとても効果的に発言している、テレビにも出ているし、反体制的な番組で発言したり、メダルまでニキータ・ミハルコフからもらっている、要するにご用番組というかそういう方向で発言している。よく軍人がいうように「しかるべく行動せよ」を守っている。
 テロが日常的になっているイスラエルのような国では学校を建てるときの技術基準がある。そんなことは我が国ではなんの対策もとられていない。ロシア全体に爆発物が仕組まれているなんて泣き言をいうのは止めよう。学校を守るべく、そういう技術基準を作れ。南部の共和国でそれが必要なら安全規則を作れ。
 警報は警察に通じている、しかし、決断を下さなければならない参謀本部は ずっっと 遠くにあることを 我々は知っている。そして そのボタンが押されるまでの時間を使ってテロリストは、ベスランでやったように。縦割り権力構造で 学校で押される非常ベルの先はずっと上の上のほうのクレムリンに行き着くようになっている。だれひとり自立した決断なぞ、残念ながらしない。今はもう自立的なじゅーナリスとたちの口をわざわざ封じる必要はなくなっている。ほんとの意味で、怖い物知らずのジャーナリストはわずかしかいない。殺されたり、脅迫されたり、クビになったり、不穏分子のレッテルを貼られて官職につけなくなったり。だから たとえば このサヤナ・シュセンスク水発電所のことで 事態を解明しようとしているジャーナリストには アタマが下がる。こういうジャーナリストは残念ながらわずかしか残っていないが、彼らに期待するしかない。 検閲は至る所に入ってくる、そしてどうでもいいことまで怖がるようになっている。前に戦場の記者サーシャ・ミナコフはすばらしい記者だが、かれはイラクで 爆破事件があったときそこにいた、それなのに 彼の素材は使わせてもらえなかった。 たしか 弾丸が飛び交うところにいた様な感じで 彼の車に弾丸があたった。貴重な素材だ、どんなチャンネルだって巨額の金額を支払っただろうに、素材をだすことさえ許されなかった。