エステミーロワは 救済を続けているミラシナ4

2009年7月29日付け ノーヴァヤ・ガゼータ

 チェチェンの治安当局は、誘拐していた3人のチェチェン人を解放した。ナタリヤ・エステミーロワがその行方を捜していた人たちだ。

 自分が殺されてしまう少し前に、ナターシャはアフキンチュ・バルゾイ村の悲劇について情報を公開していた。7月6日、クルチャロエフ地区内務局職員がリズヴァン・アルベコフとその息子アジズを誘拐した。アジズは中学校を終えたばかりだった。リズヴァンはアフガン戦争の従軍経験があり、スタヴローポリに26年間暮らし、チェチェンに戻ったのは2008年の夏、弟が亡くなり、病身の母の面倒を見なければならなかったからだ。
 その日アルベコフ親子は、アジズの大学進学のための書類を集めにクルチャロイへと出かけていった。しかしアルベコフ親子は、クルチャロイからもどる途中で誘拐され、行方しれずとなった。その日の夕方アフキンチュ・バルゾイ村では、住民が見ている目の前で、リズヴァン・アルベコフがクルチャロイ地区内務局職員によって銃殺された。リズヴァンが武装勢力にパンをあたえたことが理由だった。
 高校生アジズ・アルベコフは行方不明になった。グローズヌイの「メモリアル」だけがアジズを探していた。検察庁は殺害現場で父親のリズヴァンの遺体を写真に撮り、親類や目撃者に聞き取りをした。その後、村にクルチャロイ地区内務局長のハムザト・エディリギリエフがやってきて、遺族にリズヴァン・アルベコフは脳卒中で亡くなったと伝えた。こうして事件はもみ消された。
 この公開処刑についての情報がメモリアル経由で漏れてしまい、ただちにチェチェン当局が反応した。メモリアルの職員はチェチェン共和国人権オンブズマンのヌルジ・ヌハジエフのもとに呼びつけられることになった。ヌハジエフは地元テレビ局のカメラに向かって「チェチェン共和国での否定的なことばかりを探し出そうとやっきになり、それを全世界に吹聴している連中には驚き入る」と語った。
 そしてこう付け加えた。
 「カディロフ大統領ご自身が、こう語っておられる〈担当責任者やその部下たちとしかるべき連携を持たない連中がここで仕事をすることはないし、そういう者とは協力しない〉と。このことは指令51号に明確に書かれている。大統領が、こんなにまで人権擁護に関心をもっているのが、人権運動家にとって幸いでなくて何だ? わが国ではこの半年で3人が誘拐されている。これはもちろん名誉なことではないが、これは治安関係職員の違法行為だ──つまり、令状で呼び出すだけで良かったところを、家に押し入ったり、一斉検挙などの特殊作戦によって拘束をしてしまったというわけだ。大統領はカディロフ派の警察官たちがこういうことをすると、いつも叱っている」

 この会見の翌日に、ナターシャ・エステミーロワが殺された。世界中がアフキンチュ・バルゾイ村での公開処刑について語り始めた。そして、1週間後に17歳のアジズ・アルベコフが釈放された。

マスフド・アブドゥラエフの事件

 7月22日に、マスフド・アブドゥラエフが釈放された。彼は北コーカサスの非合法組織のリーダーの1人、スピヤン・アブドゥラエフの息子だ。
 1ヶ月前の6月20日にマスフドはエジプトからロシアへ強制送還され、モスクワ郊外のドモジェドヴォ空港で拘束された。ロシアの人権運動家たちは、治安当局がマスフドを誘拐してしまうかもしれないと予想して空港まで迎えに行ったのだが、心配は的中した。
 人権活動家たちは、一昼夜というものマスフドをむなしく待ち続けた。FSBの当直は、飛行機が着陸して5時間もたってから、活動家たちにこう告げた。「アブドゥロラエフは、ドキュメントの調査のため拘束され空港にいる」しばらく経つと「アブドゥラエフは入国し、すでに3時間前に釈放されている」と知らせてきた。さらに1時間後、行方不明になっていることを指摘されると、「おそらく荷物を取りに行ったのだろう」と言った後に、ついにはこう付け加えた。「もしかしたら、他の組織に捕まえられたかもしれない」。
 そういう事件があった後、例のチェチェンの人権オンブズマン、ヌルジ・ヌハジエフは、マスフド・アブドゥラエフをグローズヌイテレビの「支点」という番組で生出演させた。6月29日のことである。マスフドはこう語った。「モスクワに到着してから ドモジェドヴォ空港で一泊し、翌日チェチェンに飛んだ。10年ぶりのチェチェン共和国がどうなっているか見たかったし、家族や近しい人たちに会いたかったからだ」と。
 マスフドは番組の中で、誰にも圧力をかけられてはいないと語った。「俺は行きたいところに行くし、会いたい人を訪問するのだ」と。その後マスフドは再び消息不明になった。

 また時が過ぎ、7月20日に彼は再び見つかった。ナタリヤ・エステミーロワが殺害された5日後のことだ。ナターリヤは懸命にアブドゥラエフの捜索をしていた。スヴェトラーナ・ガンヌシュキナの携帯に、チェチェン共和国の捜査局捜査官と称する、ベスラン・ラバザノフという若い男が電話をかけてきた。ラバザノフはこう言った。「マスフド・アブドゥラエフ失踪についての人権活動家からの申請に関する調査をしている。今、マスフドを呼び出しているので、局来たら掛け直す」と。
 「どうやってマスフドを見つけることができたのか」という質問に、ラバザノフは、「知人を通じて」と答えた。
 しばらくしてこの捜査官が電話をかけ直してきて、受話器をマスフド・アブドゥラエフに渡した。
スヴェトラーナ・ガンヌシキナが尋ねた「この間、どこにいたんですか?」
 「ここです、グローズヌイに」
 「どこに泊まっているんですか?」
 「友人たちのところに」

 けれどもこの「友人たち」の住所を、アブドゥラエフは明かさなかった。彼自身は携帯をもっていおらず、自分の友人たちの電話番号も知らなかった。ドモジェードヴォから姿を消してから、ちょうど1カ月泊めてもらっていた、その友人たちの電話なのに。

 7月22日、アブドゥラエフはロシアとアゼルバイジャンの国境を越えた。バクーで彼の母親が待っていた。

ザイナロフとハジエフ事件

 アプチ・ザイナロフとゼムリムハン・ハジエフが誘拐されたのは7月28日だ。それで、彼らの両親がグローズヌイのメモリアルに助けを求めてきた。ナタリヤ・エステミーロワは彼らを説得し、検察に訴えて誘拐事件として訴追するようにさせた。ナタリヤ自身が、この事件について証言した。
 アチホイ・マルタン地区の検察官Yu.V.ポタニンとの会見で、アプチの母親は、息子がアチホイ・マルタン地区の病院に、頭部に重傷を負って入院しているのが発見されたと語った。しかし彼の名前は患者リストには記されていなかった。
 ポタニン検事は、部下にこの情報を調べるよう命じて、自分は会議に行ってしまった。部下は命令遂行を急がなかった。結局、病院にでかけもしなかった。アプチの母親が自分で病院に出かけていくと、息子はあわただしくどこかへ連れて行かれるところだった。彼女は息子をはっきり見た。誘拐を阻止することはできなかったが、そのとき息子を運び去った車のナンバーや車の形、色は、書き留めた。その後母親は大急ぎで検察に駆け込んだが、検察官ドムバエは、調べるようにという命令を受けていたにもかかわらず、結局その勤務時間が終わるまで、誘拐されたアプチ・ザイナロフの母親に会おうとしなかった。アプチ・ザイナロフの運命については、今もなにもはっきりしたことが分かっていない。
 彼はグデルメスの病院に移送された疑いがある。その病院の医長、イドリス・バイスルタノフはチェチェンの首相の兄だ。様々な情報源によると、この病院には非合法活動との関わりを疑われている「秘密の」患者たちが隠されているという。

 アプチ同様に誘拐されたサラウジン・ハジエフの息子ゼリムハンの運命は、メモリアルの職員の調査の結果、判明した。ゼリムハンは、「グローズネフチェガス」の技師長の運転手で、タクシー運転手のバイトもしていた。6月28日に、ゼリムハンは自分の車でアプチ・ザイナロフを運んだ。そのとき、二人ともチェチェン警察に拘束されたのだった。
 拘束の際にザイナロフは抵抗し、重傷を負った。ゼリムハンが捕まったのは、「ついで」のようなものだ。父親はつてを頼り、検察庁とメモリアルに申請を出した。ともかく大変積極的に動いた。 カディロフ側近の指揮官で、シャトイ内務局長のイブラギム・ダダエフが応じてきた。息子はかならず戻ってくる、しかし、申請書は取り下げ、これについては騒ぐのをやめなければならないと言った。
 サラウジン・ハジエフは言われた通りにした。ナターシャ・エステミーロワは、そういう約束が守られる確信を持たなかったので、捜索を続け、ザイナロフとハジエフの誘拐を周囲に知らせた。その上、欧州人権裁判所に訴えを提出した。いわゆる「緊急手続」で。
 手遅れになると人の命が危険にさらされるような場合に、ヨーロッパ委員会は、調査を待たずに訴えの審査を始めることができる。2009年6月以来、メモリアルが緊急手続を求める4件目の事件だった。欧州人権裁判所が介入してきたために、5月の末、誘拐された二人が釈放された。
 最初、彼らの居場所は不明だったし、チェチェンの治安当局は誘拐になど関わっていないと、何度も言い張っていた。この事件にストラスブールの裁判所が関与してきたので、たぶんモスクワから〈誘拐した二人を釈放せよ〉という指令がきたのだろう。
 7月20日に、ストラスブール裁判所はロシア連邦政府にザイナロフ事件の訴えが出ていることを知らせた。その後数日でゼリムハン・ハジエフは釈放された。

ナターシャ・エステミーロワが扱った最後の事件

 5月から、チェチェンでは誘拐が急増している。ニュースによれば、武装勢力の一部が共和国の治安当局にが降伏し、仲間を売っているようだ。
 5月17日、マハウリという武装勢力のメンバーと協力したという容疑で、ジャビル・ザクリエフとジャバライル・ザクリエフの兄弟、ノジャ・ジャビハジエフと「南」師団のアスラン・アリダロフが拘束された。この事件についての情報は極めて少なく、身内のものたちはまだ訴えをおこしていない。エステミーロワは、この事件に関わり始めたばかりだった。私はエステミーロワの援助によって、誘拐された被害者の父親、ナジムヂ・ジャビハジエフと会うことができた。
 「6月4日、22時15分、覆面をしていない武装した者たちが家に押し入ってきた。彼らをは知った顔だった。クルチャロイの地区内務局職員で、いわゆる「特別中隊」(「特別」な任務を遂行するために各地区に作られた)だ。息子はバチ・ユルトに連れ去られ、かつての警察の建物(住民によると違法監獄)に拘留されていた。
 金曜日に、私はクルチャロイ内務局に言った。公安局長のスルタン・ビラエフが言った。「おまえの息子は我々のところにいる。だが場所を教えるつもりはない」と。
 そこで私は、地区検察官のアナトリー・キムに直訴しようとした。そこでは私に調書に記入することをもとめず、ただ息子の名前を紙に書いて廊下で待つように言われた。15分後に家族が電話を掛けてきた。
 「すぐに戻ってこい、家に警察部隊が押しかけている」
 私がいくと、息子を捕まえた連中がいた。そして尋ねたんだ。「どこに行ってたんだ?」と。私は「検察庁に申請をだした」と答えた。もっとも息子の名前を書いた紙しか受け取ってはもらえなかったんだが。
 クルチャロイ地区内務局特別中隊長のムサ・サルマニエフはこう言った。「1時間以内にその申請書を取り下げないと、2時間後にはおまえの息子の遺体をここに放り込んでやる。警察の長は俺だ、FSBは俺だ。検察官は俺だ。俺たちは特別中隊なんだ、俺たちは何をやってもいい、そのことで処罰はされないんだ。俺はここでは皇帝であり神なんだ!」
 私は言ってやった「どうぞご随意に。だが私は息子を連れて行ったのが誰かを知っているんだ。時が来れば、そいつらは報復を受けることになる」ムサはこう答えた。「そういうことなら署にいっしょに来てもらおう、そこで話をつけよう」
 「そうしよう」と私。
 そこでムサは、私をそばに呼び寄せて、こう言った。「ややこしいことはやめるんだ。申請を取り消せ、それからおれに電話をしろ」
 私は検察官のキムの所に行って、息子の名を書いた紙を取り返した。アナトリー・キムとムサ・サルマニエフはグルだと考えたからだ。それから、言われたとおりムサに電話をした。
 その晩、息子がムサの電話を使って電話してきて、すべて大丈夫、と言ってきた。それが7月6日のことだ。だがその後、ムサ・サルマニエフの電話は通じなくなってしまった。人づてに、墓地に新しい墓が作られたと聞かされた。私はそれを掘り返せずにいる」

 ジャビル・ザクリエフ、アスラン・アリダロフ、ノジャジャビハジエフのその後については何も分かっていない。一つだけ分かっているのは、生きている彼らをツエントロイ村(ラムザン・カディロフが生まれた村で、拷問・虐待が行われる収容所がある)で見た目撃者がいるということだけだ。

2009年7月29日
0100228 ミラシナ4
http://novgaz.ru/data/2009/081/17.html