アルドィ、終わらない悲しみ──第二次チェチェン戦争のシンボルになった村 ミラシナ1

 10年前の今日、2000年2月5日に、サンクトペテルブルグ内務省警察特殊部隊は、ノーヴイエ・アルドィ村で掃討作戦を行った。その結果、少なくとも56名が死亡した。

 ペテルブルグで、「サンクトペテルブルグから良心と平和と共に」( http://pomnialdy.ru/ )というプロジェクト が生まれて、はや3年になる。これはチェチェン人の苦しみを理解し、それを公開することで、チェチェンに向き合おうとする、稀有な取り組みだ。

 このサイトには、こんなメッセージが書かれている。

 「ノーヴイエ・アルドィの悲劇に無関心でないペテルブルグ市民は、われわれ市民とアルドィ住民との親愛な関係を修復し、そしてサンクトペテルブルグとその市民たちの良心を取り戻すために団結した」と。

 画面の右手に、白抜きで「アルドィ 終わらない悲しみ」と書かれた黒いアイコンがある。これは人権擁護センター〈メモリアル〉によるドキュメント映像だ。この中に登場するナターシャ・エステミーロワに注目してほしい。これは2009年2月──最後の頃に撮影されたナターシャの姿だからだ。その5カ月後、彼女は殺された。映画のナレーターは、ロシア功労芸術家のアレクセイ・ジェヴォチェンコである。無関心でないペテルブルグ市民の一人であり、素晴らしい俳優だ。

 ノーヴイエ・アルドィは、今まで一度もテロリストの基地になった事はなかった。理由は単純だ。この村は、国外に追放され、戻れなくなってしまったチェチェン人のために造られた。元の家に戻る代わりに、1世帯につき5/100の土地を割り当てられ、そこに小さな一軒家が急いで建てられた。そして、この村にはチェチェンでの戦闘に際し、射撃陣地としてテロリストが利用できるような大きな建物は一つもなかったからだ。

 2000年2月、アルドィの住民たちはロシア軍の来訪を、希望とともに待ち受けていた。グローズヌイの大量爆撃と砲撃──1999年12月と翌1月だけで、村では75人が死亡した。地雷、破片で命を落としたものもいたが、一番多かったのは、梗塞や肺炎により死亡した老人たちであった。昼夜のほとんどを人々は自宅の地下で過ごしたが、そこは冬の湿気と寒さの場所だった。

 2000年1月末、グローズヌイからシャミーリ・バサーエフをおびき出す有名な作戦が実行された。チェチェン人たちは、封鎖された都市から出るために、裏でロシア軍に金を払って、〈通路〉を買い取っていた。しかしその〈通路〉には実は地雷が敷設されていたのだった。

 グローズヌイと周辺地域をロシア軍が占拠し、軍は2月4日ノーヴイエ・アルドィでパスポート検査をした。それはチェチェン人の未成年者と男性の書類を検査し、武器の有無を調べるためだった。そのとき軍は悪行を働かなかったが、彼らは住民たちに「明日はもっとおっかない奴らが来る」と通告した。そして2月5日、アルドィへ、2方向から部隊識別票の類を身につけていないロシアの軍人たちがやって来た。

 生き残った現地の住民たちの証言によれば、それは正真正銘の契約志願兵(徴兵よりも残虐さで悪名高い)だった。その日ノーヴイエ・アルドィで起きた出来事について、「ノーヴァヤ・ガゼータ」は何度も書いている。2006年2月までの6年間というもの、世界にアルドィの事を思い出させるのは、アンナ・ポリトコフスカヤの義務でもあった。アンナが殺されてからは、別の者たちが引き継いでいる。56名のアルドィ住民の死。メモリアルのサイトには、そのリストが掲示された。殺された人々の多くは老人だった。

 最年長は1924年生まれ、子どもたちも同時に殺された。一番小さい子は生後2ヵ月だった。「アルドィ 終わらない悲しみ」で、死んだ人々の姿を観て欲しい、その胸が苦しくなる光景を。これらの犠牲が、ありふれた略奪のためでしかなかったという、この映画の主題が理解されるだろう。

 これは奇跡的に生き残ったマリカ・ラバザーノヴァの証言だ。彼女はこの映画のヒロインの一人である。

 中庭で叫び声を聞いたの。恐ろしく、汚らしい罵り言葉だった。私がドアを開けると、兵士がいた。ジーナとフセイン──夫の親類で二人とも老人よ──が玄関に出ていた。白い迷彩服を着た軍人が、振り返って私を見たわ。今でも憶えている、その生気のない眼をこちらに向けて、「そこで何をしている」と聞いたのよ。私はここに住んでいると言った。

 その時、フセインがこう頼んだの。「マリカ、彼らは金を要求しているんだ。誰かのところへ金を貰いに行ってくれ」と。私は兵士に言った。「聞いてちょうだいよ。私達にはお金がないのよ。もしあれば、他の人たちのように出て行けたでしょうけど」と。

 そうしたら、彼らはいきなり銃を撃ち始めたの! 「全員を殺す命令を受けているぞ」と叫んでいた。私は隣へ駆け込み、門を叩いたけど、誰も開けなかった。デニエフ・アルだけが出てきて、私に100ルーブル札を3枚を渡した。私はこのお金を届けようと、自分の家の門に近づいた時、見たの。私の猫が歩いている。彼女の内臓は飛び出していた。猫は歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まり、そして死んだわ。

 私は足が立たなくなって、そして思ったの。中庭では、もう全員殺されたんだって。私がさっきの白い迷彩服に300ルーブルを差し出した時、彼は嘲り笑った。「これが金だって言うのか? お前たちはみんな、カネや金を持っているだろう──お前の歯も金だな」私はピアスを外して(これは私にママが16歳の記念に買ったものだった)彼らに渡し、殺さないで、と頼んだの。彼はまた「全員を殺すよう命じられている」と叫んで、部下の兵士を一人手招きして、こう言った。「家へ連れて行ってこの女を脅せ」。

 兵士が私を家に連れて入ってすぐ、私は家のボイラー室へ飛び込んだ。そこのストーブの後ろに隠れたの。これがあの状況で出来た唯一のことだった。その時よ、中庭で射撃が始まった。私は急いでまた兵士の元へ駆け出して、殺さないでと哀願したの。彼はこう言ったわ。「お前を殺さなければ、俺が殺される」。恐ろしかった。銃弾を浴びせられること、爆撃されること──この兵士が私に銃を向けさえすれば、この日までにあった事すべてをもう一度体験する覚悟をした。

 でも、彼は私でなく床や壁を撃ち始めた、ガスコンロを撃ち抜いたのよ。その時、彼は私を撃たないのだと分かった。私は彼の足をつかみ、殺さなかった事に感謝した。彼は「静かにしろったら。お前はもう死んだことになってるんだ」

 毎年続けて、ジャーナリストがこんな詳細な事を書くのは不可能だ。にも関わらず、すでに10年も、人権擁護やジャーナリストの少数のグループは、かつてチェチェン人の村サマーシキがチェチェンでの第一次戦争のシンボルとなったように、第二次チェチェン戦争のシンボルとなったアルドィを思い起こし、世界に思い出させる。この行為は何がしかの結果をもたらした。調査されない他の戦争犯罪の膨大さには及ばないが、ノーヴイエ・アルドィでの掃討による刑事事件が提起された。結果としては、一方から見れば無価値であり、他方からみれば原則的である、だからこそ重要である。

 まず殺人者の所属が明らかにされた。軍検察庁の取調官の調書から、この部隊はペテルブルグ警察特殊部隊であるとせねばならず、軍検察庁は手を引き、この捜査を地方犯罪として検察庁へ引き渡した。そして、この事件にはチェチェンの検察官があたることになった。チェチェンの若い取調官アンゾール・アスーエフが、ペテルブルグへ出向いた。

 数ヶ月間、彼は警察特殊部隊の隊長から、2000年2月にチェチェンへ派遣された兵士の写真を手に入れようと努力した。本来の出張期間を超えたので、あやうくクビになるところだった。しかし彼は努力の末、全員分ではないが、写真を手に入れた。その写真により、ノーヴイエ・アルドィの住民は、事件を起こしたのが警察特殊部隊の兵士ハービンだと確認した。彼は現在まで逃亡中であり、すでに身を隠して数年経つ。

 エドワルド・ウリマン、エフゲーニー・フジャーコフ、ラーピンら、いわゆる〈カデット(士官候補生)〉たちも、同様の戦争犯罪を犯した。もちろん当局は彼らを捜そうともしない。ラーピンたちは、ハンティ・マンシースク警察特殊部隊の関係者で、アンナ・ポリトコフスカヤ殺害事件の際に取調官たちが明らかにしたように、彼らはそれぞれ自分の家に住み、何食わぬ顔で暮らしている。

 取調官アスーエフのペテルブルグ出張の後、ノーヴイエ・アルドィに関する事件はもみ消された。しかし、集められた証拠は、それでも十分だったのだ。ストラスブルグのヨーロッパ人権裁判所にとっては。ノーヴイエ・アルドィ住民たちの訴えに、ストラスブルグはすでにいくつかの決定を公表した。最も広く知られた決定は「対ロシア政府、ムサーエフらによる訴訟」である。ノーヴイエ・アルドィで実行された掃討作戦について、ストラスブルグはロシア政府に責任があると認めた。

 アルドィの住民たちは、14万ユーロの賠償金を受け取った。同時に欧州人権裁判所はロシア検察庁から、2000年冬にチェチェンへ派遣されたペテルブルグ警察特殊部隊隊員のリストを受け取る事に成功した。このリストと尋問により、アルドィの悲劇に関わる犯罪者が確認がされた。アルドィでの行為に関して尋問された24名のペテルブルグ警察特殊部隊のリストが、ノーヴァヤ・ガゼータにある。編集部はこれを公表しないことにした。そのリストには、撃たなかった人間が一人はいたからである。マリカの証言にある通り。

 ロシア政府がストラスブルグへ送ったノーヴイエ・アルドィに関する刑事事件の資料は、不完全なものだった。特に最初の数ページは、2000年2月にチェチェンへ派遣されたサンクトペテルブルグ内務省警察特殊部隊隊員たちの尋問議事録である。いくつかの尋問には、同時に手書きで読みにくく書かれたフレーズの2枚目が付してある。たとえば、〈作戦では、武器は使われなかった〉とか、〈ノーヴイエ・アルドィ村のはずれで私は、多くの埋葬されたばかりの墓がある墓地を見た。人々の非業の死の事情は、わからない〉とか。ヨーロッパ人権裁判所の決定文では、警察特殊部隊の隊員たちが、このとおり証言したと述べられている。

 しかし、尋問された隊員たちが、2月にノーヴイエ・アルドィで埋葬されたばかりの墓を見る事は不可能だった。このことは、ヨーロッパ人権裁判所の決定には何も述べられていない。こういうことだ。2月5日の掃討の犠牲者の多くは、1カ月以上経った3月9日に、ようやく埋葬されたのだ。生き残った住民たちは、死体を動かすことを最初ためらっていた。そして、法医学的鑑定の実施を、絶望的に長いこと待っていた。

 軍検察庁の代理たちはというと、住民たちが掃討の犠牲者を葬るのをずっと待っていた。そして、ようやく埋葬が行われてから、彼らは村へやってきたのだ。ノーヴイエ・アルドィで、チェチェン人を射殺したペテルブルグ警察特殊部隊の事件から、モスクワのスーパーマーケットで買い物客たちを射殺したエフシューコフ少佐の事件までの間に、10年が過ぎた。この間、ロシア政府はチェチェンのテロリスト達と執拗に戦っている。その一方、ロシアの市民は、なによりも警察官たちを恐れることになったのである。