誰も先生の言うことを聞かなかった ミラシナ3

 ナタリア・エステミーロワは、何よりも大事なことを、私たちに教えてくれた。恐怖というものと、どう戦えばいいのかを。

 ナターシャが殺されたのは水曜日だった。朝9時半に、グローズヌイの自宅から数メートルのところで白い「セミョルカ」に押し込まれた。「メモリアル」のグローズヌイ支部の仲間たちが目撃者を捜し、ことのすべてを見ていた二人の女性を見つけ出した。二人はあきらかに何も言うまいとしていた。すでに乗り合いタクシーにのりこもうとしていて、ついでにという感じでこういっただけだった。

 「ナターシャを捜しているの? 彼女は誘拐されていったわ。アパートの窓から見えたの。車のナンバーは覚えていません。でもナターシャのあとを地元の女の人がついて行った。その人ならもっとたくさん話してくれるでしょ」

 この女性のことは、最初の情報ではなぜか誘拐の手引きであったかのように言われている。モンタージュ写真は金曜日にできた。捜査官が、それを持って彼女のアパートの建物の全部の世帯で聞き込みをした。ドアを開けようとしない者、何も話をしようとしない者もあった。そこで、アパートの住人は全員外に出されて、練兵場にいるかのように整列させられ、モンタージュ写真と照合された。こうやって、やっと目撃者の女性が見つかった。ナターシャはこの女性の目の前で、文字通り数メートルのところでさらわれていったのだ。しかし、誘拐していった人たちのことも、車のナンバーも彼女は覚えておらず、警察に電話もしなかった。

 この事実は多くのことを物語っている。人々は、この共和国で誘拐を行っているのがどういう組織であるのかを知っていたからこそ、そんなふうに振る舞ったのだ。

 捜査官は確信している。犯人たちの最初の計画では、ナターシャをどこかへ連れ出してから殺して、遺骸は隠してしまい、永遠に見つからないようにしてしまうつもりだったが、水曜日の朝、イングーシで執達吏が襲撃されるという別の事件が起こり、捜査線が張られた。誘拐犯たちは、おそらく、携帯無線を持っていたのだろうと捜査当局は推定している。彼らはイングーシの取締まりが強化されていることを察知した。

 その結果ナターシャは、チェチェンとの国境からそれほど遠くに連れ出さずに銃殺し、路傍に捨てられた。彼女を見つけたのは、そこで草刈りをしていた老人だった。

 コーカサス検問所(チェックポイント)に置かれた監視カメラに、その朝3台の白い自動車が写っていた。これがチェチェンとイングーシの行政境界を越えている。そのナンバーを確認し、突き止めることは難しくないはずだった。しかし捜査官が手に入れたこの映像を、ハンカラ(ロシア軍基地がある地域)のロシアの捜査部が横取りしてしまった、上層部がこの連中を捜査に加わらせた模様。「ハンカラ組」とチェチェンであだなされている者たちは、すでに「メモリアル」の職員たちを尋問していた。その内容のほとんどがカディロフについてだった。

 ナターシャはまさに今殺された。なぜなのか?

 この問題に答えるには、「彼女が何に携わっていたか」だけでなく、チェチェンで本当はどういうことが起きているのかを知る必要がある。

 共和国の安定というのは、廃墟からグローズヌイが復興していると言うことだけではない。これはもっとも厳しい情報封鎖なのだ。実際のテロ事件の件数や治安機関によって殺害されている人たちの数を知ることは、事実上不可能だ。これは、国家機密なのだ。

 わずかしかない、FSBのリーク情報によればチェチェンでは2009年6月だけで18件のテロ事件が起きている。7月はまだ終わっていないが14件。これまたFSBの職員たちの手から手にビデオが回覧されている。完全武装武装勢力300名が行進している最新映像。言っておかねばならないが、この武装勢力の作戦は、まさにチェチェン全土の規模で進んでいる。最近、軍人が乗った「ウラル」が、グレネード弾で攻撃を受けた。現場には全共和国からといっていいほどの治安機関の職員が駆けつけた。

 破片の山のほど遠からぬところに1600キロトン(?)の威力のリモートコントロールつき爆破装置が発見された。奇跡的に爆発しなかったのだ。無線信号をシャットアウトする装置がそばにあった。

 ロシアの大統領は、チェチェンを他のコーカサス地域の手本にしている。大統領ラムザン・カディロフ(親ロシア派)は、チェチェンの「シャイタン(悪魔またはゲリラ戦闘員)」の数は7、80名にまで減ったと、定期報告で知らせている。スリム・ヤマダエフの殺害容疑で国際手配となっているチェチェンの副首相は長期の特殊作戦を指揮していたが、すでに2ヶ月、イングーシのスンジェンスク地区から出てこようとしない。

 グローズヌイのテレビではアダム・デリムハノフ(カディロフの側近で、ヤマダエフの殺害に関わったと言われている)が、森に向かってカラシニコフを撃っている様子を見せている。チェチェンでは最近、あるニュースがしきりに話題になった。デリムハノフの兄弟をロシア英雄にしたというニュースだ。ドク・ウマロフ(独立派大統領)を殺害したか致命傷を与えたことを讃えて。ドク・ウマロフは大憤慨して、アンドレイ・バビツキーのインタビューに「自分はぴんぴんしていて、テロ行動をいつでもできる」と答えた。地下活動に人材不足はない、とウマロフは語った。必要となればワッハーブの旗の下に数千人が集まる、と。

 このウマロフの言葉は絵そら言ではない。地元当局がとっている「共和国の安定化」の方法は、人びとを少しずつ地下活動に追いやっており、それは恐怖で麻痺している人々が「小さなスターリン」よりましなものを地下活動の方に見出しつつあるのだ。ラムザンは、チェチェンでそのように呼ばれている。

 最近の数ヶ月は、チェチェンの住民が誘拐された、殺されたという知らせが驚くほど次々に入ってくる。ニュースというより、噂の津波が押し寄せてくる。ナターシャはそれを調べ、事実として一つひとつ確認していた。つまりどこで、誰が、いつ行方不明になったか、ということを調査していた。人々が口を開くようにさせたのだ。人々に法的な手続きの支援を申し出ていた。「すぐに行動しなければだめだ」と説明していた。

 彼女はある不文律を心底信じていた。それは「誘拐された者は最初の数日にしか救うことはできない」というものだ。身内を説得して、検察に訴えさせることができた場合だけ、被害者が助かる可能性がある。そうすれば人は返されるが、そのとき必ず条件が出される。「検察への訴えを取り下げろ」という条件だ。

シャリのトルドヴァヤ通り、ダジロフの家で

 6月の終わりに放火されたこの家を、やっとのことで見つけた。そこでは、眼の中に恐怖をたたえ、よその人を見るだけで大声で泣き声を上げる小さな子どもたちを連れた3人の女性に迎えられた。この家に、彼女たちの家族が住んでいた。身近な親戚たちだ。どの家にも4人ずつ子どもがいて、全部で12人、最年長は14歳、最年少が7ヶ月だった。
 6月28日に、ここに警察官たちが来て、39歳のマゴメド・ダジロフを連行していった。 カディロフツィ(カディロフ派民兵)は、令状など何も提示しなかったにもかかわらず、彼は抵抗しなかった。その翌日、20人の民兵がこの家に押し入り、子どもも含めて全住人を、隣り合わせている建物の一つに押し込めてから、マゴメド・ダジロフの家に放火した。彼らは全焼し終わるまで待とうともしなかった。消火は辛くも間に合い、壁や屋根は無事に残った。家に入ってまず目につくのは 黒こげの木製のゆりかごだ。

 最初の3日間、家族はマゴメド・ダジロフの行方を何も知らなかった。やがて、「アフマトカディロフ連隊」の第8中隊の基地で、不法に投獄されていることが分かった。そこで拷問を受け、彼は独立派武装勢力に協力したことを認めた。もっともそれは、昨年の夏に森に入ったアブバカル・ムスリエフを車に乗せたということだけ。そしてムスリエフの家も同じく放火された。

アルグン、ユヌソフの家。

 スターラヤ・スンジャ地区で、7月2日にカディロフツィが特殊作戦を展開した。民家を包囲し、そこにいたサイド・セリム・アブヅルカディロフを殺害し、20歳のマジナ・ユヌソワを負傷させた、彼女は一週間前にアブドウルカディロフに嫁いだばかりだった。

 公式情報によれば、この2人は「アル・カイダ」の密使で、ラムザン・カディロフ大統領の暗殺を準備していたとされている。暗殺計画が阻止された、というニュースが流されたのは、イングーシのエフクーロフ大統領襲撃の数日後だった。しかも、奇妙なことがある。カディロフ暗殺計画は実際には珍しいことではなく、そういう計画は秘密に進められる。これらの暗殺が、実はカディロフにかなり近いところにいる人たちによって計画されていたりするせいでもある。発覚すれば、未遂犯たちへの残虐な報復が行われるのが常だ。

 今回は、すべてがいつもとちがっていた。いかにも大げさな暗殺計画が、それに劣らず大げさに、連邦全体のマスコミを駆使して伝えられた。マジナはこれらの報道では自動小銃で反撃する自爆犯の女と報じられていた。しかし、マジナ・ユヌソワが「アルカイダ」で、暗殺を用意していたなどということはありえないと言える根拠があるのだ。この乙女は一身に銃弾を浴びて負傷し、カディロフツイたち自身によって病院に担ぎ込まれている。彼女はそこで手術をうけ、意識をとりもどし、母親を呼んでくれと頼んだのだ。

 翌日、マジナの両親はアルグン地区の内務局に連れて行かれ、娘が地下活動に関わっているだろうと尋問されたあと、解放された。事件から2日後の7月4日、ユヌーソフの家に迷彩服の男たちが押し入り、マジナの両親をボイラー室に閉じこめてから、家に放火した。家の放火のあと、娘の両親は親類のところに逃げていった。

 翌7月5日の早朝、迷彩服の男たちがユヌーソフ家の近所の住民たちの扉を叩いて、布で覆われたマジナの身体を車のトランクから取り出して置いて行った。病院の関係者の証言では、カディロフツイはマジナを病院から連れ出した。そのときはマジナはまだ生きていた。

アフキンチュ・アルゾイ村、リズバン親子のこと

 最近チェチェンでの武装勢力が活動を活発化しているので、公開処刑も次々に起きている。まさに、ナターシャ・エステミーロワのおかげで、アフキンチュ・アルゾイ村での悲劇についても明らかになった。7月6日、クルチャロイ地区内務局の職員によって、リズヴァン・アルベコフと、その息子のアジズが誘拐された。息子は高校を卒業したばかりだった。アジズは大学入学のための書類をそろえるためにクルチャロイ地区へ行っていた。リズヴァン・アルベコフはアフガン戦争をで従軍しており、ロシアのスタヴローポリ市に26年間住んだ後、、2008年の夏にチェチェンに戻らざるをえなくなった。兄弟が亡くなり、病身の母親の面倒を見る必要があったからだ。

 リズヴァンは、アフキンチュ・バルゾイの村はずれに移り住んだ。ここは一筋縄でいかない村だった。この村の墓地にはシャミーリ・バサーエフ(死亡した野戦司令官でチェチェンの英雄)の父親が葬られており、昨年も武装勢力の親類の家が二つ放火された。武装勢力はこの村に頻繁にやってきて、食料補給を求めていた。一方、治安機関は山で活動する武装勢力への対処ができないので、この村の人々が武装勢力を助けているとして、残虐な仕打ちをしてきた。

 アルベコフ親子は、その挽肉機に飛び込んでしまったのだ。クルチャロイ地区から戻るとき、車を止められ、引き出され、どこかへ連れ去られてしまった。この日の夕方、2台の車が アフキンチュ・バルゾイ村に現れ、たむろしていた若者たちのところで止まった。

 車の扉が開き、おそろしく暴行を受けたリズバン・アルベコフが車の中から転げ落ち、あとからクルチャロイ地区内務局の職員たちが出てきた。覆面もしていない。彼らはリズヴァンを蹴飛ばして、「武装勢力に食料をやっていたか」と訊いた。リズヴァンはやっとのことで「ノー」を口にした。そのとき、村の若者4人がいる目の前で、リズヴァンは銃殺された。警察官たちは「武装勢力を助ける者は皆こうなるんだ」と言って、去っていった。

 アフキンチュ・バルゾイ村の人々は、リズヴァン・アルベコフの埋葬を長いことためらった。11年生のアジズの行方はいまだに分からない。アルベコフの一族はありとあらゆるコネを使って、検察庁が村に来てくれるよう訴えた。しかし来たのはクルチャロイ内務局長のハムザト・アジリギリエフだった。そして人々を集め、ガルダリンスク家の人々がどういう運命にあったかを噛んで言い含めるように説明し、その後アフキンチュ・バルゾイ村の人々は口をつぐんだ。

 検察も、この事件を取り上げようとしなかった。この情報封鎖に穴をあけたのがナターシャ・エステミーロワだった。7月9日木曜日に、ナターシャの記事を引用する形で、アフキンチュ・バルゾイ村での公開処刑のニュースがインターネットに流れた。翌日、金曜日にチェチェンの人権担当全権ヌルジ・ヌハジエフが、ことの次第を明らかにするようにと命令を受けた。ヌハジエフはメモリアルのメンバーを呼びつけ、「メモリアルの活動は共和国に泥を塗っている」と説教を垂れた。ヌハジエフはこう言った。「客観的に書かなければならん、つまり良い面について書くことだ」と。アフキンチュ・バルゾイの状況については何一つ問いかけなかった。その4日後、ナターシャは誘拐された。朝、覆面もせずに、沈黙を守る隣人たちという目撃者のいる前で。

 これはつまり、見せしめのための公開された報復だった。

 生涯の大部分を、ナターシャは歴史の教師として過ごした。最後の10年間が、ジャーナリストであり、人権活動家だった。チェチェンのもっとも山奥の村でも、彼女は知られていた。 グローズヌイのメモリアルの事務所では、毎日何度となく、この言葉が聞かれた。「ナターシャ・エステミーロワはどこですか? ナターシャに話しがあって来たんです」と。

 ナターシャの告別式に集まったのは、100人足らずだった。しかし、現在のグローズヌイで、これはとても多い人数なのだ。この人々がどれだけの思いで恐怖心をねじ伏せてきた事か! それは寝ても覚めても感じている恐怖であり、ロシアにいる私たちには理解できない恐怖だ。とはいえ、理解できないと言っていられるのは今のうちだが。

 コシュケルダ村のナターシャ・エステミーロワの家の門が開かれたままになって、何日経つだろう。それでも、訪れる人はまことに少ない。親類か同僚だけだ。人々は怖がって、お悔やみを述べにすら来られない。ナターシャの16歳になる娘ランカは、皆からひそひそ声で言われる──「ラムザン(カディロフ大統領)のことは何も言うんじゃないよ、ぜったい、政治のことなんか何も話題にするんじゃないよ」と。

 ナターシャは、ラムザン・カディロフを個人的な敵とは見ていなかった。彼女に敵などという者はいなかった。彼女は原則を守っていただけだ。グローズヌイの目抜き通りが「勝利大通り」から「プーチン大通り」と改名されてから、彼女は一度も(!)この通りを歩いていない。これは不便で、ばかげてさえいるかもしれない。しかし、こういう問題ではナターシャはきわめて神経質だった。

 彼女はプーチン通りに足を踏み入れることはなく、チェチェンの新政府が求めるようになった頭のかぶり物も絶対に被らなかった。1年半ほど前にナターシャは、「ノーヴァヤ・がゼータ」に、チェチェンの男たちのコンプレックスについて厳しい論調の文章を書いた。 男たちが、チェチェンの女性たちの勲功を正しく評価していないと。女性たちは仕事をし、食事を作り、子どもを産み、人々を救っていた。男たちが戦争に明け暮れている間に女性たちがしてきたこと、あるいは、戦争で、家族や子どもを捨てて、だめになっていった男たちについて。

 チェチェンでの「平和建設」は、女性たちの頭にプラトーク(ネッカチーフ)を被せることから始まった。女性たちはそうして、自分たちの居場所を指図されたのだ。チェチェンの国家機関のどこにも、プラトークを被らずに入ることは許されない。

 2月にナターシャは、グローズヌイのムスリム・フチエフ市長に呼びつけられた。ナターシャはフチエフの身内についての記事を書いていた。フチエフはまたもや暴力行為の張本人だった。親類がそういう高官であるために、犯罪者が新たに2人の若い女性を暴行するまで放置されていたのだ。この事件があってようやく逮捕され、ほとんど現行犯だったにも関わらず、裁判はほぼ1年におよび、14年の刑が申し渡された。判決が読み上げられたとき、犯罪者は皆に聞こえるように弁護士を脅迫した。「釈放されたら、殺してやる」と。

 この弁護士は、ナターシャが個人的に雇った人だった。彼女はちょうどアンナ・ポリトコフスカヤ賞を、初めての受賞者として授与されたばかりだった。ナターシャはこの裁判が開かれるように、全力を尽くしていた。

 いままで書けなかったことだが、今こそ、みんなが知るべきだと思う。ナターシャはこの暴行事件について知り合いから聞いて、その少女たちの母親を見つけ出し、訴えるよう説得した。協力してくれる弁護士や心理学者たちも見つけた。

 その2月の夜に、ナターシャから携帯メールが入った。「フチエフ市長のところに向かっています」と。しかし庁舎に入れてもらえなかった。「わたしはプラトークはかぶりません」とナターシャは言ったからだ。

 フチエフは「プラトークについての法律」の作者であり、その本人がナターシャの所まで出て行かざるを得なかった。フチエフはそのとき、噛んで含めるように、ナターシャ・エステミーロワがどれだけ権力の不興を買っているかを言い聞かせた。しかし、ナターシャは命令を嫌い、脅しを受け入れなかった。昨年3月に、カディロフとの会見のあとでナターシャはこう言った。

 「私はあの人たちの誰とでも、先生として話をするのよ」と。

 「カディロフ大統領とも?」わたしは訊いた。

 「そう、ホシ・ユルタ村の劣等生と話すっていうことよ」とナターシャは笑った。そして付け加えた。「あの子たちにだって、教育してあげたのに、こんな戦争さえなかったら……」

エレーナ・ミラシナ 
グローズヌイーモスクワ
0100320ミラシナ3
http://novgaz.ru/data/2009/077/00.html