2010 3/13 『日本と世界のチェチェン難民、離散地からの声』集会会場でのメモ

○2月23日、常岡浩介氏による、自由コーカサスの抗議行動の取材

・抗議行動
デンマークのロシア領事館前で、ロシア政府の非人道的政策を批判するもの。

・「自由コーカサス」とは
民衆運動によるコーカサス地域(イチケリア)の独立を訴える団体。第二次チェチェン紛争時、司令官として戦いに従事した、イサ・ムナエフ氏が議長を務める。

・民衆運動の背景として
チェチェン民族の軍事力の限界がある。ムナエフ氏によると、最後の司令官、アミル・マンス-ル氏の殺害(2/22)により、軍事的リータ゛ーシッフ゜をとれる者がいなくなった、とのこと。

・イチケリアとワッハーブ派について
イチケリア…元来のコーカサス地域。ムナエフ氏はここの独立を望んでいる。
ワッハーブ派イスラム連合国として、北コーカサスを独立させたい。(カフカス・イマラート)

○ヨーロッパ各国に住むチェチェン難民の状況

デンマーク
政府からの支援が充実。語学学校が無料。就業できる。住まいも提供される。ムナエフ家族も地域に溶け込んだ生活をしており、子どもたちは、地元スポーツチームに所属し、他地域の難民とも交流を持つ。

・英国
チェチェン難民は20人ほど。ザカーエフ(イチケリアの首長)と家族は政府に保護されている。ほかの一般の難民は保護されていない。

・フランス
チェチェンは1万人(保護されていない)。苦しい生活を強いられている。民主的な運動が行われた。(パリ〜ストラスブール間をデモ行進)

スロバキア
難民認定はしない。スロバキア自体が貧しい状況。難民収容所で数ヶ月の審査を受けた後、国内の住居で暮らす。就業はできない。

ウクライナ
ロシア国籍を持つ者はビザ不必要。ビザ所有者も3ヶ月以上の滞在は不可。

グルジア
難民認定はしない。パンキシ渓谷の難民は飢餓状態。この地域を観光地化し、生活水準を上げようといった計画もある。

・トルコ
難民認定はしない。難民キャンプ・モスクの地下・アパートメント等で生活。イスラム団体や、コーカサス諸民族の子孫が支援。

○常岡氏の見解

日本に住むチェチェン人は生活しにくいようだ。

・理由として…
チェチェン人の一人ひとりが孤立している。更に、生活圏に難民がいることが知られていない。⇔ヨーロッパ各国では、難民どうしでコミュニティがある。難民を含めた外国人が生活の中で当たり前の状況。

文責:編集部


補足説明:
デンマークの首都コペンハーゲンロシア大使館領事部前での抗議行動ロシア政府の非人道的政策とコーカサス侵略政策への抗議です。「自由コーカサス」は、チェチェン(イチケリア)の独立だけでなくコーカサス全域の諸民族の団結と連帯を訴える社会政治運動です。

議長を務めるイサ・ムナーエフは、現在44歳、17歳でソ連軍に入りアフガニスタンに送られて以来、軍人として活動した後、チェチェンの独立に伴い、チェチェン軍の創設に参加、警察の組織化にも関わり、第2次チェチェン戦争開始直前には、マスハードフ政権の内務相でした。戦争開始とともに首都防衛司令官になります。グローズヌイの包囲戦は2000年1月末に多くの部隊とそれに従った一般市民が地雷原を強行突破して、南部山岳地帯へ逃げますが、ムナーエフ司令官は、最高司令官だったマスハードフから、この撤退からロシア軍の目をそらすため、特別の命令を受けます。それは、ムナーエフの部隊は、グローズヌイに残って、ロシア軍と戦いを続けるというものでした。300人ほどの残留
部隊で市内に攻め込んだロシア軍と18日間市街戦を戦ってから、グローズヌイを去りました。

常岡さんの話を補足すると、いわゆるハジムリートというのは(イスラームスーフィーイスラーム神秘主義)のタリカート(教団)です。チェチェンにこの教派を紹介したが、ハジムラートという人物なので、ハジムリートと呼ばれるのですが、バグダッドで創始した教祖は、カーディルという人物なので、スーフィズム全体では、カディーリーと呼んでいます。ロシアが、カディーロフ一族に目を付けたのは、この一族が、ロシア風に苗字の尻にオフを付けていますが、カディーリー教団の中心的な一族なので、その宗教的権威を利用しようと図ったのです。現在のラムザン・カディロフと2004年に爆殺された父親のアフマト・ハジの間に、アル・アルハーノフという、警察官僚出身の影の薄い大統領がいましたが、彼の家筋は、もう一つのスーフィーのタリカートである、ナクシュバンディ教団の指導者でした。ナクシュバンディーはウズベキスタンのブハラ出身の導師です。19世紀のカフカス戦争で初期に戦いをになったのは、ナクシュバンディートで、後期を担ったのはハジムリートです。

2月下旬に殺されたマンスール司令官について彼の本名は、アルビー・エフミルザエフで、サウジアラビアに留学してイスラームを学んだ経験を持ち、マスハードフ大統領の殺害後、4代目大統領となった、アブドルハリム・サドゥラーエフの後、最高シャリアート(イスラーム法廷)議長を引き継いだ宗教的な権威でもありました。ここで注目していただきたいのは、ロシア地域における、いわ
ゆるワッハーブ主義というのが、きわめていかがわしい代物だということです。サウジアラビアの国教であるイスラームワッハーブ)とも似て非なるもので、過激路線に若者を引き込む一方で、ロシア特務機関と繋がっています。

マンスール司令官のような、サウジアラビア留学経験のある宗教的権威がモフラディ・ウドゥーゴフらの「カフカス・イマラート」創設を支持しなかったことは、非常に大きな意味がありました。というのは、この策動が、チェチェン共和国(イチケリア)を内部から解体させようという、ロシア側の特殊工作の一環として行われたものでもあったからです。2005年にマスハードフが殺され、2006年サドゥラーエフとバサーエフが相次いで殺されると、独立派武装抵抗運動への戦費が枯渇します。西側は一切戦費を提供しませんし、チェチェン内部の戦費調達は殆ど不可能になり入ってくる金が、アラブ諸国からだけとなり、しかもその窓口を握った、ウドゥゴフらの挑発的な過激路線を受け入れるものだけに戦費が流れるようになり、イサ・ムナーエフは、負傷したこともありますが、ワッハーブ
主義者の路線を受け入れず亡命を余儀なくさせられました。それまで彼は、チェチェン軍南西戦線の副司令官でした。司令官は、ドッカ・ウマーロフで、彼は兵糧攻め状態の中で、ワッハーブ主義に屈したのです。この人物はもともとギャング団の首領で、戦間期には人質ビジネスをやっていました。
あこぎなもので、ロシア政府の支出する身代金をチェチェンのギャング団とロシアのFSBなど特務機関が山分けしていたのです。このことは、リトビネンコも証言しています。(岡田一男)