ベスランの真実 コントロールを外れたスパイがテロをもたらした ミラシナ2

エレナ・ミラシナ 2009.8.31 『ノーバヤ・ガゼータ』
http://novgaz.ru/data/2009/095/00.html

残された捜査報告書

 ロシアで起きたテロのうち、もっとも血なまぐさかったベスラン学校占拠事件は、政府と、武装勢力との小さな駆け引きから起こった。
 2004年8月の初め、北オセチア内務省の保安局長カズベク・ママエフの机に、K刑事部長(編集部は実際の名前、職責を把握している)のからの報告が置かれた。

「小職は、情報提供者〈N〉との会見により、以下の情報を得た。〈N〉によると、住所***(編集部は住所を把握している)のアパートを借りているチェチェン人たちが、テロを計画している。その根拠は、8月10日ごろに彼らの会話を偶然耳にしたことである。それによると彼らは『確かに子どもたちには不幸だ。何の罪もないんだから。しかし、これはやらなければならない』と語っていた。情報源によれば、このときの会話で、ウラジカフカスのテレビスタジオへの襲撃も語られていた。この情報はさらに調査する必要があると認める。情報提供者〈N〉に対しては、十分警戒しつつ、彼らについての情報をさらに集めるよう依頼した」

 カズベク・ママエフは、部下への指示をこの報告書の左すみに記した。「北オセチア共和国内務省組織犯罪取締局への情報を用意するよう命ずる」と。
 実際にベスランで学校占拠事件が起きてしまったのは、報告からほぼ1カ月後だから、この重要な捜査情報はテロを防ぐ助けにはならなかったようである。
 この報告書は、2004年の夏に北オセチアで用意されていたテロについての情報が、かなり定期的に入っていたことの証拠となっている。モスクワからの暗号電報や、チェチェンの治安機関からの、極めて具体的な情報にいたるまでのすべてがそうだ。報告書の他のページには、たとえば「2004年9月1日、朝5時、チェチェンのシャリ市でアルサミコフが逮捕された。取調べでアルサミコフは、『ベスランの学校占拠が計画されている』と語った」とまで書かれている。
 それなのになぜ、このテロ事件が防げなかったのか? それどころか、数多くの捜査情報が無視され、テロリストたちの進路にあるすべての検問所や障害が取り除かれ、事実上ノーチェックで、邪魔もなしに目標に到達することができたのはなぜなのか? この5年間、捜査当局はこれらの疑問に答えていない。報道関係者たちは、「特務機関の程度が低いだけさ」と、肩をすくめてみせるのだが…。
 やはりこう問いたい。情報があったのに、なぜそれを調べようとしなかったのか?

シャミーリ・バサーエフの供述

 これらの疑問に答えようとした唯一の人間は、奇妙なことにチェチェンの野戦司令官であるシャミーリ・バサーエフだった。2005年8月31日に、武装勢力側のサイト『カフカス・センター』に、その後物議をかもすことになる「ベスランについて語るべきこと」というバサーエフの手紙が掲載された。

…ベスランについては、ロシア主義の真相をみごとにむき出して見せた作戦に関与しなかったという必要があろうか? われわれがやっても居ないことに対する責任をとる必要があるだろうか?
 この占拠事件では、北オセチアの特務機関幹部が、われわれをそそのかしていた。特務機関は、アブドラ・ホドフ(変名プトニク、ウラジーミル・ホドフ)というスパイをわが方の部隊に潜入させようとしてきた。
 ムジャヘディン(武装勢力)に参加していた兄の葬儀のときに彼は警察に拘束され、そこで虐待が待ち受けている刑務所に入るか、特務機関の手先となるかを迫られた。私(バサーエフ)の信頼を得るために、ホドフはウラジカフカスでイングーシの武装勢力に混じって、いくつかの爆破事件を起こして、背後では当局に支援されていた。ホドフはその頃にも、特務機関流にわれわれに提案をしていた。「北オセチアの政府と議会を自爆犯によって占拠する」という作戦だ。
しかしイングーシのムジャヘディンの部隊で1カ月ほど過ごすうちに、ホドフはそのグループの指揮官に、自分は特務機関(組織犯罪取締局と連邦保安局)のスパイであり、バサーエフのところに送り込まれたのだと自白した。
 私は彼に会い、正直に言ってくれたことに感謝し、二重スパイとなってイスラムのために働くことを提案した。その後、彼は私の助言に従って、その「上司」に「連中は言葉でなく、行動を見て判断するので自分は信用されていない」と不満を訴えた。そこでロシア側は彼に、軍学校の生徒に対する攻撃、ウラジカフカスに液化ガスを運搬しているトラックの爆破、旅客列車の爆破などをさせてやった。
こうして彼は私(バサーエフ)の信頼を獲得し、2004年の春から特務機関と『共同で』、北オセチアの政府の建物の占拠と、敵方の諜報資料の略取を準備した。これは9月6日、チェチェン・イチケリア共和国独立記念日だ。
 特務機関の側では、この攻撃グループをウラジカフカスの入り口で待ち伏せて殲滅し、その時にホドフはグループから離れて下水のマンホールに隠れるという算段になっていた。8月31日、予定どおりわれわれの通り道が開かれ、我々はそこを通って、時間と攻撃対象を「取り違え」、ベスランに入っていった。

 この手紙は、ベスラン事件捜査対象の主要人物の重要な供述として評価されるべきものだった。ましてホドフというテロリストの奇妙な役割については、早い時期に問題になり、武装勢力のなかでも目立っており、9月3日には、北オセチアのエリホトヴォ村に住んでいた母親がベスランに連れて行かれさえしていた。
 さきのバサエフの手紙は、捜査当局をまさにヒステリー状態に陥れた。南部連邦管区の副検事総長だったニコライ・シェペリはバサエフのこの声明をただちに「ばかげたざれ言、情報テロ」だと決めつけた。バサエフの手紙を転載したマスコミには、非難の雨が降り注いだ。
 しかし当時、ベスラン事件の刑事捜査資料にはバサエフの説を補強する根拠が集まっていた。残念ながら私たちがそのことを知ったのは、つい最近のことだ。そして今こそ、明らかな結論を出すことができる。
 ホドフは長年、国の特務機関のスパイで、彼を直接に指導していたのは北オセチア組織犯罪取締局の幹部だったのだ。
 やがて、ベスラン関係の調査は、2004年9月3日13時3分に体育館で起きた最初の数回の爆発の性格について、ロシア連邦下院議員ユーリー・サバリエフが至った結論を否定しさろうとする、あの手この手の試みへと成り下がった。テロリストのホドフと北オセチア組織犯罪取締局との関係については忘れてしまったかのように。

ホドフの逃亡を助けたのは誰なのか?

 ベスラン事件に先立つ2004年2月のこと、北オセチア検察庁は、ウラジカフカスのボロジン通りとゴリキー通りの交差点で起きたテロ事件のために、ホドフにかかりきりになっていた。この事件は、演習場と兵舎を往復する軍学校生徒たちの車両を狙った爆破事件だった。一般には「ハミド銀行近傍爆発事件」と呼ばれている。捜査のために主に動いていたのは検察庁で、組織犯罪取締局ではない。この2つの組織は、まったく別の性格を持つ。組織犯罪取締局の職員は、常に犯罪者たちとの接触を持っている。ここでは情報収集と犯罪の摘発は表裏一体だ。しかしそのために、合法と非合法の境が曖昧になってくる。そのバランスをとることができるのは、検察庁が監督機関として正常に機能する場合だけだ。しかし取締局は次第に増長していった。
 一方、検察庁には──奇妙なことに──かなり程度の良い捜査官が集まった時期があった。取締局への監督機能を十分に果たすことはできずにいたが、ホドフのことは、たちまちに何か怪しいと感づいた。
 ハミド銀行近くで起きた爆破事件は、すぐにテロ事件だということが判明した。チェチェンのハタブ野戦司令官、バサエフ野戦司令官指揮下の爆破仕掛け人のやり方だったからだ。乗用車に黒いスコッチテープでとりつけられた爆破装置、近所から無線で送られる起爆信号。爆破装置には指紋が残っており、アディゲヤと北オセチアで指名手配となっているホドフのものと判明した。また、この事件の当時、ホドフが部屋を借りていた家も発見された。
 ここまでの捜査は、検察庁と組織犯罪取締局の共同で、迅速かつ秘密裏に行われた。しかし、爆発現場から2キロほどの所にあるコイバエフ通りのホドフの家に踏み込んだとき、中はもぬけの空。ポットの湯はまだ熱く、あわてふためいて武器や証明書類が放置されていた状況からして、誰かがホドフに電話して、逃げるよう警告した様子だった。
 この家の検分の結果、ホドフがバサエフ武装勢力の一員だということを示す材料も見つかった。家の畑は、近所の人の目から隠すために、黒いポリエチレンフィルムで覆われていた。この黒いフィルムは、モズドクでのバス爆破事件でも使われている。武装勢力は、他の町でも2軒の家を買い、アジトとして、また負傷者の治療ができるように改装していた。そこでも畑は黒いポリエチレンでおおわれていたが、その下には地下壕が掘られており、シャミーリ・バサーエフがしばらくいたこともある。
 ハミド銀行近くのテロのあと、ホドフは全連邦レベルで指名手配となった。その写真(ホドフのアジトに残っていた写真屋の領収書を手がかりに発見されたもの)が共和国全体に張り出され、地元のマスコミでも公開された。
 ちなみに、それでもホドフは北オセチア中を自由に移動し、2004年の春と夏に故郷のエリホトヴォ村に公然と姿を見せたが、それが通報されても、共和国の連邦保安庁の支局や組織犯罪取締局は拘束しようとしなかった。なぜなのだろうか?

秘密資料

 ベスラン事件の主要部分には、やはり最終的には公開すべき秘密の文書がある。これは「連邦法に違反する刑事捜査活動の排除についての上申書」というもの。北オセチアの検事A.ビグロフが2004年の10月にロシア連邦内務次官のパニコフ大将あてに用意したものだ。

...共和国検察庁はベスランの第1初等学校の占拠、人質事件の参加者であったV.A.ホドフについての調査を行った。その過程で、内務機関捜査部の無為が発見された。
 マイコプ市の内務局はキーロフ地区内務部(ホドフが住民登録していた)に5回にわたって捜査命令を出しているが、ホドフの居場所を捜索し、拘束する措置はとられなかった。

 2003年11月17日にキーロフ地区内務部に指示された捜索命令が実施されたのは2003年の11月19日であった。
 ホドフの捜索には共和国内務省と南部連邦管区のメンバーがあてられたが、ホドフの拘束措置は実質上何もとられなかった。
 ことに、地区内務部に上記の5回の捜索命令があったにもかかわらず、また2003年の7月19日にホドフの弟が殺害され、葬式に、指名手配中のホドフ本人がやってきたにもかかわらず、その葬儀に捜査官が張り込むこともなかった。ホドフは墓地で弟をイスラム風に埋葬することを望み、葬儀の予定は広く知られていた。そしてホドフは葬儀の翌日に村を出て行った。
 マイコプ市の内務局捜査部の資料の中には、2003年8月6日付けで出された、ホドフの逮捕状もある。これは、共和国の内務省内務省刑事捜査局長代行のA.N.ハジエフが、同じく内務省組織犯罪取締局副局長のR.G.ソヒエフ宛に送ったファックスだが、これも通信日誌に記載されていない。
 ...しかも、組織犯罪取締局は所定の手順を踏まずに人を拘束しており、これを記録している日誌でも、通常の事務手続きの手順が無視されている。日誌には、被拘束者がいつ、取締局の拘置所に連れてこられたのかという記述がしばしば抜けている。その上、文書は通し番号を打った上で綴られているべきだが、2003年の分のページがすべてちぎりとられている。また、同局の当直日誌も、2003年分もページがちぎり取られている。この日誌は番号も振られておらず、ヒモでしばることも、封印もされていない。
 ホドフが連行され、拘束された、あるいはホドフが共和国内務省の組織犯罪取締局幹部と接触があったという事実は否定されている。
 小職は、ロシア連邦検察庁についての連邦法第24条に基づき、以下の処置を提案する:

 1997年から2004年までの期間に組織犯罪取締局をはじめとする内務省の部局によってとられた、ホドフ容疑者への措置が十分であったのかどうかを調査すること。
 共和国内務省がホドフと秘密の協力関係にあったかどうかを確認すること。
 共和国内務省組織犯罪取締局、およびキーロフ地区内務部の職員とホドフとの接触があったかどうかを、保安当局に確認させること。ホドフの捜索における、職務怠慢と無為の責任者を厳しく懲戒処分とすること…


ベスラン事件の「功績」

 こうした調査が実際に行われたのか、そしてどんな結論が出たのかは、不明である。ベスランの事件があった当時の組織犯罪取締局長代行だったロマン・ソヒエフが尋問されたかどうかもわからない。冒頭に名前の出た内務省保安局のカズベク・ママエフは、2004年8月に、ソヒエフに宛てて、「子どもたちを人質にするテロが準備されている」という報告を送っている。本紙の調べでは、その報告には何の対応もとられなかった。
 ロマン・ソヒエフは 学校占拠事件に関する裁判で、2度供述している。これは生存したテロリストのクラーエフの裁判の時である。
 そのときの供述は以下の通り:

ロマノフ(検事) 組織犯罪取締局長代行となったのはいつからか?
ソヒエフ 2004年7月から2004年9月までだ。
検事 あなたの職責は?
ソヒエフ 組織犯罪の防止、摘発、阻止、検挙を組織することだ。
検事 北オセチア共和国でテロが行われるかもしれないという情報を協力者から得たことがあったか?
ソヒエフ ベスランの学校に関する情報は入っていなかった。
検事 2004年8月末に、北オセチア共和国内務省命令第500号があなたの局に来ていなかったか?
ソヒエフ 来ていない。
検事 テロが準備されているという警告が書かれた、2004年8月14日付のテレタイプ1751号は入ってこなかったか?
ソヒエフ われわれのところにテレタイプはない。そのような内務省の指示が来ることはあり得るが、私はそうしたものを覚えていない。
エッラ・ケサエワー(被害者) テロリストのホドフという人物を知っているか?
ソヒエフ 知っている。
被害者 彼は連邦指名手配だったのか?
ソヒエフ 説明するが、彼の弟(V.A.ホドフ)がわれわれの組織犯罪取締局の調査対象だった。ただ、弟を調べた時点では、まだ兄のホドフは指名手配になっていなかった。指名手配になったのは2004年2月に起きた、ハビド銀行近傍テロ事件から後だ。
被害者 なぜ彼は指名手配でありながら、ずっと自由の身だったのか? あなたの局はテロリストホドフを逮捕しなかったのか?
ソヒエフ 逮捕には至っていなかった。もちろん、指名手配になっている人物が捕まれば釈放したりはしない...

 2004年夏のような緊迫した時期に、組織犯罪取締局長が何も知らず、暗号電報も受け取ったことがなく、テレタイプも職場になかったとは驚くほかない。
 ベスラン事件のあと、ソヒエフは北オセチア共和国組織犯罪取締局の副局長として勤務を続けているばかりか、中佐から大佐に昇進している。2007年にヌルガリエフ内相は(おそらく地元当局やマムスロフ共和国大統領の働きかけによって)ソヒエフを北オセチアの犯罪、汚職取締りの副担当に任命している。ことほどさように、指導部はソヒエフの能力を高く評価したのだ。検察側の上申にしたがって、組織犯罪取締局と、ソヒエフに対する調査が行われたとしても、──業務日誌の一部がちぎりとられていたり、ノートごと消え去っていても──処罰ではなく、褒賞と昇進が彼を待っていたのだった。
 

事件を起こした者たちの目的

 実際、裁判におけるソヒエフの供述には、ふたつ疑問がある。なぜ彼は何もいわなかったのか。
 2004年8月初めに保安局から来た報告を、ソヒエフが知らないことはあり得なかった。確かに、報告にはベスランの学校を占拠するとまでは述べられていないが、子どもたちに対するテロは警告されていた。ホドフが実は1997年から指名手配されていることも。ホドフの捜索令は、北オセチアには2003年に来ていた。捜索に北オセチア内務省の人員が宛てられていたのだ。
 ホドフの捜索は、なぜまったく行われていなかったのか。もともと、ホドフはいくつもの共和国の特務機関の監視下にあったからだ。しかもその間シャミーリ・バサーエフ武装勢力の一員でもあったのだ。
「ホドフ─バサーエフ─組織犯罪取締局」のつながりについての情報を『ノーバヤ・ガゼータ』に伝えてきた捜査官たちは、もうベスラン事件関係の仕事から離れている。しかし、彼らはこのつながりに気がつき、調べ、ベスラン事件の全貌を明らかにしてくれている。これはまさに〈依頼殺人〉であり、無意味で残虐なテロ事件などではなかった。
 殺戮を依頼したのはバサーエフではない。北オセチア情勢を不安定化させたかった者がバサーエフを利用しようとしたのだ。不安定化の目的は極めて具体的で、要するに北オセチア共和国の権力の交代が狙いだったと、私は確信している。ところがバサーエフたちは、北オセチアでの「道が開けられ」ていたのを利用し、最初の取り決めから意図的に逸脱して、政府庁舎でなく、ベスランの第1初等学校を標的にしてしまった。
 それまで武装勢力北オセチアで行っていたテロ活動ははるかに小規模なものだった。バサーエフのベスランでの目的は、オセチア・イングーシ紛争(1992年の、プリゴロドヌイ地区の領有を巡る民族紛争)の挑発/再発だった。大きな代償と努力(たとえば北オセチアのザソーホフ大統領の辞任)を払って、その紛争は回避することができた。しかし、共和国のなかで、バサーエフとスパイの駆け引きをした勢力は結果的には目的を達成したのだった。